ムシカ・ポエティカ

ムシカ・ポエティカ通信


ムシカ・ポエティカより皆様へ 初秋のご挨拶を
 猛暑、酷暑、熱暑・・・どのような単語も追いつかなかった今年の夏もやっと終わるのか・・と思わせる今朝は8月26日土曜日です。
 五ヶ月も前の話で恐縮至極ですが、三月の一連のコンサート、
 <バッハとペルト>(3/17)
ドレスデン聖母教会室内合唱団を迎えて
 <オルガンとア・カペラ>(3/24)
同<オルガンとカンタータ>(3/25)
は以下の通り無事終了致しました。


★3月17日[金] 午後7時
東京カテドラル聖マリア大聖堂
 <スターバト・マーテル>(ペルト)は「悲しみの凍結」「沈黙の音」そして「永遠の一瞬」とでも言うべき稀有なる音楽でした。この世にもこんな流れ方をする時間があるのですね。


★3月24日[金] 午後7時
東京カテドラル聖マリア大聖堂
 ドレスデン聖母教会室内合唱団の方々の清澄な響きは格別のもの、特にブルックナーのモテットは音楽のみに許された極上の時、稀有の体験でした。この日のプログラムを作るのには非常に苦労しましたが、そのお話はまたの機会に。


★3月25日[土] 午後6時
本郷教会(東京・上荻)
 バッハのカンタータはさながら水と空気、太陽と星、といった趣きで、万物に贈られた生命を実感しました。聖母教会室内合唱団の指揮者でオルガニストのマティアス・グリューネルトは、本郷教会のバルコニーに据えられた草苅オルガンを指差し、「なんて小さい!」と嬉しそうに首をすくめたのでしたが、彼がバッハの<四つのデュエット>を弾き出すと、その鳴り出した音の一つひとつに愛情のこもったタッチが感じられ、草苅オルガンならではの素朴でストレートな音に聴き手の耳が吸い寄せられて行きました。


ドレスデンの方々には、前夜のカテドラルの広い空間と、小さな本郷教会の両方を東京の思い出として戴けたのでは・・・。


 復活祭(4/16)が過ぎ、
★5月6日[土]
J.S.バッハ カンタータ
第104番「イスラエルの牧者よ、耳を傾けたまえ」

★5月13日[土]
同第103番「汝らは泣き叫び」

★5月20日[土]
同第166番「汝いずこに行くや」を本郷教会の<讃美と祈りの夕べ・Soli Deo Gloria>にて演奏、その後シュッツ合唱団は9/15[金]に行われるJ.S.バッハ「ロ短調ミサ曲」の練習に入りました。

<Soli Deo Gloria>は年間の土曜日午後6時より40~50分間の讃美と祈りの時です。ここ数年「教会暦によるバッハ・カンタータシリーズ」を続けていますが、興味の尽きないJ.S.BACHのお蔭で、歌い手、弾き手、聴き手が一つとなった、喜びの空間と時間が生まれつつあります。そして、

★7月15日[土]
第93番「愛なる神の御心のままに」三位一体後第五日曜日用

★7月22日[土]
第9番「われらに救いの来たれるは」同第六日曜日用

を歌い、7/23[日]より7/29[土]までの一週間「第二回ムシカ・ポエティカ公開講座」が本郷教会において開催されました。
 この講座では、オルガン、フランス歌曲などのソロの勉強に加え、どうしてもソリスト指向に傾きがちな日本のアカデミックな音楽教育の場ではなかなか体験しづらいアンサンブルの実践に光を当て、演奏経験豊かな講師たちによって一人一人の受講生に核心に触れる指導が行われました。受講生は、音楽を見つめ究めて行くことと同時に、自分自身を観察し、また他の受講生の演奏を聴き、多くの人とのアンサンブルを通して自分を解放して行くことを学びます。受講生も講師も真剣勝負の七日間、得難い体験でした。以下はそのレポートです。

 7/23(日)午後2時 バッハのカンタータ107番の合唱練習(淡野弓子指導)がシュッツ合唱団の何名かに受講生2名を交えて本郷教会の3階オルガン・バルコニーで始まりました。ア・カペラの曲は鍵盤楽器を使わずに譜読みを始めますが、バッハのカンタータのように、通奏低音と器楽の加わる作品は最初オルガンの伴奏で練習をします。3時にはオーケストラが集合、合唱とともに107番を練習、このカンタータを7/29(土)の<Soli Deo Gloria>で歌うことが目的です。


 ヴァイオリン(瀬戸瑶子指導)の受講生は中2から大学3、4年生の七名、皆専門家志望で、普段はソロの勉強に明け暮れている訳ですが、ここではテレマン、モーツアルト、バルトークの2声の曲を学び、バッハのカンタータでは他の管楽器やオルガン、合唱などとのアンサンブルを体験しました。第一日目、瀬戸講師は2時間立ちっぱなしで順繰りに各受講生の傍らに立ち、そこで一緒にヴァイオリンを弾き続けるという指導、二日目は生徒たちのみで弾かせ、音楽的なアドヴァイスがなされました。


 発声(淡野太郎指導)は自分の身体をすべて楽器として解放すること、声帯を閉じて鳴らすこと、共鳴腔の開け方、この身体の支え方などなど身体のトレーニングに始まり、最後は一人ずつコラール「Jesu, meine Freude イエス、わが喜び」を歌い、皆、前より声が出て来た事を実感したようです。



 声楽アンサンブル(淡野弓子指導)はシュッツの「Kleine geistliche Konzerte・小宗教コンチェルト集」からSSSB, SS, SSB, SATBの編成による四曲を一人ずつのアンサンブルで勉強しました。あっと言う間に和声の変わる初期バロックの音楽では、旋律的に動く箇所と、和声的に動く箇所では声の置き方が異なる、ということを理解せねばなりません。ともすればメロディックに歌いがちな「歌い手」には厳しい訓練ですが、皆まじめに取り組みました。

 武久源造講師によるオルガンのレッスンは、器楽アンサンブルなどをリードする時の武久講師の怒濤のような牽引力とは正反対の、非常に静謐な時でした。武久講師の「一つのフレーズの意味を悟るまでに何日もその音楽のことを考え続けていると、ある日突然それが天から降ってきたように意味を知らされ、どう表現したら良いかが分かる、そこで与えられたものはすでに個人のものではない、だから皆に聴いて貰うべく演奏する・・・」との言葉は、祈りに導かれて音楽が生まれて行く、というプロセスを、改めて気付かせてくれるものでした。


 演奏行為ではあるものの、「指揮」というジャンルはまた一種独特のものです。淡野個人の経験からいえば、指揮は「待つ」という時間から始まります。音楽が始まる時は指揮者が合図をした時、に見えるのかもしれませんが、実際は違います。その音楽の始まる時は、与えられるのです。指揮者の仕事は、与えられたその時をキャッチして演奏者に伝えること、この瞬間を狂い無く捉えるために、全身の置き方、といったようなものを学び、次にやって来た音楽が自由に出入り出来るような環境を「指揮法」と呼ばれるテクニックでコントロールすることです。音楽自体はすでに生きて羽ばたいているのです。その動きのどこかにすっと入り込み、共に生き、音の舞いを続けて行きます。主体は音楽にあります。指揮者は音楽の動きを冷静に観察し、歌い手や奏者に伝えて行く、といった感覚を養うことが大切です。さらに合唱の指揮は、オーケストラの指揮とは異なり、歌い手の「楽器作り」から始めなくてはりませんし、発声や外国語の発音や意味、歴史的背景、様式感、時代の趣味などなど、文化一般の広く深い理解も必要とされます。合唱指揮(淡野弓子講師)の講座ではアンサンブル・アクアリウスの協力を得て、フーゴー・ディストラーの「メーリケ・コーアリーダーブーフ」より<春だ>と<狩人の歌>の2声ながら1声ずつ拍子の異なる曲の勉強をしました。指揮者の立ち方が変わるだけで、合唱団の声が変わる不思議さも改めて実感しました。


 フランス歌曲(武田正雄講師)ではアーンの作品「Si mes vers avaient des ailes!」と「A Chloris」が共通教材、それに各受講生の持ってきた作品でレッスンが行われました。アーンの「Si mes vers・・・」はその昔「我が歌に翼ありせば」と訳され、日本でも戦前から戦後にかけて非常に愛唱された曲でした。この懐かしくも麗しい調べに再び巡り会え、大変幸せでした。また「A Chloris」にはピアノの部分にバッハの「G線上のアリア」が聴こえるという、これもしんみりさせる音楽、武田講師の含蓄のあるお話とともに、日頃シンプルに音楽を楽しみたい気持ちをなにか違う方向へ持って行かされそうな、いささか残念な我が国の音楽環境のこと、また本気で取り組まれなければならない基本的な発声指導など、多くの問題と課題に思いを馳せた時間でした。


 さて守安功・雅子夫妻の「アイルランド音楽実践」には6、7人の受講生がそれぞれ面白い楽器(プサルテリーなど)、笛、ハープなどを手に参加、夫妻のリードでどんどん即興的に愉快なアンサンブルを楽しみました。譜面はなく、皆、そこで聴いた音、旋律、リズムを次々に模倣したり、発展させたり、突如乱入したりしながら、心の底からアンサンブルを堪能し満足したのです。夜は守安夫妻によるコンサートでした。これも笛・・トラヴェルソ、ホイッスルなどにハープ、コンサーティーナ、太鼓、スプーンなど、彼らが自分たちの足で直かに踏みしめた土地の、しかもそこで、音楽と一体化した生活を送って来た名人達から、直接受け継いだメロディ、リズムが解き放たれました。この東京で、日本人同士が心からアイルランドを楽しんだひとときでした。

 そして、

★7月29日[土]
第107番「汝なんぞ悲しみにうなだるるや」同第七日曜日用

 この日はいよいよ<Soli Deo Gloria>での演奏です。まずは廣田牧師によって、詩編51;12-14が朗読され、シュッツの<小宗教コンチェルト集>より「神よ、わたしの内に清い心を創造し」が大石すみ子(S)、細川裕介(T)が瀬尾文子(Org)とともに歌われました。続いて今年の5月11日に発足した<メンデルスゾーン・コーア>が「朝の祈り」「森よ、さらば」をア・カペラで歌いました。初舞台にしては堂々とした演奏でした。
 若いヴァイオリニストたちは、テレマン、バルトーク、モーツアルトのいずれも二重奏曲をメンバーが交代しながら颯爽と弾き切りました。「若さ」の振りまく「希望」と「未来」、なんと清々しかったことでしょう。


 いよいよカンタータ107番<汝なんぞ悲しみうなだるるや>です。名曲の誉れ高いコラール・カンタータで、第一ヴァイオリンのトップに瀬戸瑶子、第二ヴァイオリンのトップに永井由里という組み合わせも初めて実現し、この二人の悲愴感の横溢した出だしの対旋律の絡み合いに、ああ、バッハはここまで強い音楽を書いていたのだ、ということを知らされました。9月15日の<ロ短調ミサ曲>もヴァイオリンはこの二人の組み合わせです。ご期待下さい。


★8月5日[土]にはすでにお伝えしたように
瀬尾文子ドイツ留学壮行コンサート
第136番「神よ、願わくはわれを探りて」同第八日曜日用

が行われ、こののち私たちは8/20[日]午後5時の<本郷教会サマーコンサート2006>へ瀑流の如くなだれ込みました。

丁度このリハーサルの時間は高校野球決勝戦「斎藤祐樹」「田中将大」の歴史的投手対決のさなかでしたが、こちら「永井由里」「武久源造」のマッチも始まって以来のヒートアップ・コンチェルト、ヴィヴァルディの<四季>より「夏」の演奏では本郷教会での拍手が一拍子で延々と続いたのでした。


お知らせ
J.S.バッハ<ロ短調ミサ曲>BWV232
★9月15日[金]午後6時30分開演
東京カテドラル聖マリア大聖堂
淡野弓子指揮 シュッツ合唱団&ユビキタス・バッハ

 バッハが教会暦に従って作曲した教会カンタータや受難曲、また機会に応じて作られたモテットには、神の姿やイエスの言葉、それらを取り巻く人々の疑いやつぶやき、悲しみそして喜びが、まことに身近かな感情から深い瞑想の次元に至るまで隈無く書き尽くされています。しかし、この<ロ短調ミサ曲>はまず暦から切り離された音楽で、使われたテキストはミサの通常文、そのため、キリスト教徒とキリストの教会全てが理解出来る祈り、信仰告白、讃美なのです。バッハはルター派であるにも拘らずなにゆえカトリックの典礼文に曲をつけたのか、に始まる数々の疑問は近年少しずつ解明されていますが、今回の演奏では、本郷教会におけるバッハの教会カンタータシリーズの演奏を通して知り得た彼の作曲態度、歌詞の取り扱い方、演奏に際しての工夫などをベースに「今」「ここで」を実験してみたい、と思っている次第です。演奏陣も淡野弓子らバロック音楽のパイオニア世代から40、50代の中堅を経て20代後半から30代前半へかけての第二世代、さらに19歳、20歳の青年たちが共に声を挙げ楽器を奏します。皆様にお聴き戴ければこんなに嬉しいことはありません。

<レクイエムの集い>
★11月17日[金]午後7時開演
東京カテドラル聖マリア大聖堂
F.リスト<レクイエム>
  指揮 淡野太郎
H.シュッツ<音楽による葬送>
  指揮 淡野弓子
 以上二つのコンサートの詳細およびチラシはこのサイトで御覧戴けます。
ただ以下の間違いがございました。お詫び申し上げます。
   誤 11/26[土]→ 正 11/25[土]
   誤 12/27[日]→ 正 12/27[水]

 では皆様、どうか気持ちのよい秋をお迎え下さい。

2006・8・26 Yumiko Tanno



追記

★10月3日[火] 午後5時~9時
 ルーテル市ヶ谷センター[無料]
<ムシカ・ポエティカ祭り・2006>
 夏の講座で学んだ方々、とくにオルガン、フランス歌曲の発表演奏があります。各スタッフもそれぞれ演奏、武久+永井はヴィヴァルディの<秋>を、またベルリン在住のピアニスト新井真澄さんのショパンなどなど、毎年アッと驚く演奏で、皆様をお待ち申し上げております。