ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(1)

2009年7月5日 
会員 淡野弓子 

 シュッツ合唱団が40年も続くとは当初全く考えておりませんでしたが、現実に40周年が近付くにつれ、モーセの荒れ野彷徨40年、イエスの40日間の断食・・・などと「40」という数字の持つ意味が目に触れる機会も多くなって、感慨を新たに致しました。実際、私たちの40年とはただシュッツに学ぶ40年でありました。私個人にとっては「修業」という言葉以外浮かびません。
 シュッツ合唱団は、それまで5年の間ルネサンス・バロック期の合唱音楽を手探りで歌っていた『レーベンス・コール』という小グループが、何回もの話し合いの末、将来の目標をハインリヒ・シュッツの音楽の研究と演奏に定め、1968年の復活節に『ハインリヒ・シュッツ合唱団』という名前に改め、新たな出発をしたのが始まりです。
 それまでの指導に当たっていた淡野弓子(当時は大橋弓子)は1963年に来日し、7月6日に新宿・厚生年金会館において演奏会を行ったドイツのヴェストフェーリシェ・カントライの演奏を『レーベンス・コール』のメンバーと共に聴き、一同多大なる衝撃と同時に深い感銘を受けました。プログラムは、バッハのモテット《イエス、わが喜び》に始まりジョスカン・デ・プレのミサ《パンジェ・リンガ》よりキリエとグローリア、シュッツの詩編《我、山に向かいて目を上ぐ》、ディストラーのモテット、コッターのオルガン曲、そして最後はバッハの2重合唱のモテット《歌え、主に向かって新しき歌を》でした。シュッツもディストラーも初めて聴く音楽でした。このカントライではソロをする人も合唱部分では共にトゥッティを唱和し、すべてが調和していました。それまでの、ソリストの声は合唱と混ざりにくい、とか、合唱とソロは両立しない、といった巷で普通に言われていた常識をくつがえすものでした。それまでの暗中模索に希望の光が見えた瞬間です。それまでの日本では、このようなヨーロッパの地下水脈に触れる機会がなく、「合唱」というジャンルの認識も極めて浅いものであったと思います。この時の私の気持ちを正直に申し上げるなら、懐疑的であった「合唱」というものの姿が自分の中で一変し、このような音楽のためなら一生を捧げても悔いは無い、と思ったのでした。因にこのコンサートのプログラム解説は服部幸三先生がお書きになっておられます。服部先生は、碩学グルリット教授の最後のお弟子であられ、エーマン教授は最初のお弟子であられたと伺いました。奇しくも、というご縁と思います。芸大で音楽史のお講義を伺って以来、服部先生には今に至る迄半世紀を越えるご指導を戴いています。
 その後私は、教えを請いたい旨を手紙にしたため、エーマン先生に直かにお出ししたのです。幸いにも願いは叶ってハノーヴァーから列車で1時間、デトモルトから30分のヘルフォルトという小さな町に建てられたヴェストファーレン州立教会音楽学校(現・教会音楽大学)のGast-Studentinとして受け入れられ、寄宿舎生となって、教会音楽全般、特に合唱指揮、合唱及び独唱歌唱法を集中的に学びました。1964年のことです。諸般の事情で2ゼメスターしか滞在出来ませんでしたが、天国的な一年でした。当時校長であられたヴィルヘルム・エーマン教授より直接指導を受けたシュッツの合唱音楽解釈、バッハの演奏法およびディストラーを始めとするドイツの現代合唱音楽の実践などを通じて、これらの音楽を日本に根付かせることが出来たらとの願いから『ハインリヒ・シュッツ合唱団』が誕生したのです。
 1968年9月14日、第1回のコンサートを東京文化会館小ホールで開きました。プログラム小冊子の表紙はハインリヒ・シュッツとその宮廷楽団のかの有名な図版が用いられ、本文第1ページ目には詩人尾崎喜八氏の<ハインリッヒ・シュッツ>という詩が掲載されています。当日はステージの上から服部先生が穏やかな口調でシュッツについて解説をして下さり、小林道夫氏がチェンバロのソロとコンティヌオを弾いて下さいました。チェロは斎藤鶴吉氏、コントラバスは今は亡き江口朝彦氏でした。海のものとも山のものとも分からないよちよち歩きの合唱団にこれほどの錚々たる専門家のご助力があった、ということは、今考えてみても、天よりのお恵みとハインリヒ・シュッツその人の持つ比類ないエネルギーの御蔭と言うべきでしょう。
 この日のプログラムは、シュッツの《ガイストリヘ・コーアムジーク》(1648)よりのモテット5曲、ルネサンス期の世俗歌、ヴィヴァルディ=バッハの《チェンバロ協奏曲ニ長調》(チェンバロ・ソロ)、バッハのモテット《イエス、わが喜び》というもので、シュッツ合唱団と名乗ったにしてはバッハの方が多かったのでしたが、当時はこれが精一杯でした。このコンサートののち、クラウス・プリングスハイム氏よりデイリー毎日紙上で、シュッツ合唱団の誕生と活動について積極的な応援のお言葉を戴き、まずは幸先のよい船出だったと思います。
 そのすぐ後に後藤田篤夫氏(元国際ハインリッヒ・シュッツ協会員)より、遠山信二氏率いる宗教音楽研究会でオーストリアのテノール歌手、クルト・エクイルツ氏を招くのだが、シュッツ合唱団でも彼と共に何か歌いませんか、という提案を戴きました。
 シュッツの《マタイ受難曲》は、1965年の受難節にエーマン先生の指揮のもと、ドイツ各地で演奏した作品でした。エーマン先生の練習では、聖書のドイツ語とシュッツの音型との関わり方を一単語ずつ教えられ、特に同じ言葉を二度、三度と畳み掛けるように歌う歌い方を何度も繰り返して練習しました。聖書の一語一語を単に口から外へ出すのではなく、歌い手は言葉を魂で受け止め身体全体で捉えねばなりません。エーマン先生にとって言葉は火の玉のようなもの、身体は言葉とともに燃え上がり、そこから放たれた言葉はもはや過去のものではありません。イエスとイエスを取り巻く全ての人が甦えるかのようでした。
 1969年3月13日、エクイルツ氏に福音史家をお願いして、この《マタイ受難曲》を演奏しました。福音史家エクイルツ氏の語りは風の如く水の如く坦々と進み、その中で合唱は自由に舞うことが出来ました。発足して半年の私たちが戴くには勿体なさ過ぎる贈り物でした。この公演については菅野浩和氏より暖かいご批評を戴き、この日本という国にあってシュッツを演奏する意味もより明確になったように思います。
 1969年10月には金澤正剛、大橋敏成、島田孝克三氏の企画制作による「フランシスカン・チャペル・センター宗教音楽シリーズ」において三宅春恵先生ご主宰の「ムーゼン・クランツ」とともにシュッツを演奏、続いて11月にはムーゼン・クランツのコンサートでモンテヴェルディの《7声のグローリア》、シュッツのモテット、バッハの《イエス、わが喜び》などを歌いました。
 この時期の日本では「古楽」という言葉はまだ使われておらず、それぞれの演奏家が、「これは!」と思った作品を「知らせたい、知らせねば」といった思いで走り回っていたいわば草創期でしたから、ガンバやリュートはピリオド楽器でも、ヴァイオリンはモダンというような具合でした。オルガンも辻宏氏のポジティーフ・オルガンが運び込まれた時には、小さくとも本物のパイプの響きと人間の声との相性の良さに、思わず涙がこぼれたものです。
 1970年3月、再び「フランシスカン・チャペル・センター宗教音楽シリーズ」においてシュッツの《ムジカーリシェ・エクセクヴィエン》を演奏、7月には文化会館小ホールにおいて第三回の演奏会を開きました。ここでも《エクセクヴィエン》を歌いました。
 8月にはドイツの青少年で構成されている「ベンツ金管合奏団」が来日、指揮者のベンツ氏がエーマン教授の薫陶を受けた方だったというご縁で、シュッツ合唱団とジョイント・コンサートを開くこととなりました。エーマン教授のご専門は16、7世紀の楽器学及び演奏法で、特に金管アンサンブルに関しては当時非常に先駆的な働きをされました。ヴェストファーレンの教会音楽大学では今も昔も男子学生は金管が必修です。‘enge Mensur’(狭管)のトロンボーンを振り回して学校の庭を走っていた男子学生の姿を思い出します。
 ジョヴァンニ・ガブリエリ、シュッツといった人々の音楽を演奏するにあたって、会場は目白の東京カテドラルが良いのではないかと考え、塚本神父さまに直訴、即座にOKというわけには行きませんでしたが、なんとかお願いにお願いを重ね、8月には目出たくカテドラルでのコンサートが実現しました。この日聖堂に鳴り渡った金管は勿論ピリオド楽器でした。日本では初めての響きだったのではないでしょうか。ここでトロンボーンを吹いた青年の一人Eckhard Korthus君が、26年後の1996年に私たちの練習会場である五反田のドイツ語福音教会の牧師として赴任して来た時には、お互いに驚き、心から再会を喜び合いました。
 この演奏会がきっかけとなって、東京カテドラル聖マリア大聖堂で演奏会を開くことが定例化しました。あの広大な空間と長い残響時間を体感しながら演奏者の立ち位置を工夫し、各作品ごとに、どのように音が飛び、混ざり、響き合うかという研究を重ね、今に至っております。
 10月14日には国際基督教大学教会堂に設置されたリーガー社製のパイプ・オルガンの披露演奏会で歌わせて戴きました。オルガニストは林祐子先生でシュッツのモテット、詩編137、ドイツ語マグニフィカト、それにバッハのオルガン・コラールとコラール合唱を交互に組み合わせたプログラムでした。
 11月11日、なんとヘルフォルトの教会音楽学校でお世話になったオルガニスト、A.シェーンステット教授が来日され、東京カテドラルでシュッツ合唱団と共にコンサートという運びになりました。バッハ、パッヘルベル、ブクステフーデらのオルガン曲の間にシュッツの作品を織り込んだプログラムでしたが、10月のICUと並んで、オルガンと合唱とのコンサートは当時は珍しいものの一つだったように思います。
 シェーンステット教授はラミーン、ダーフィッド、シュトラウベに学び、1945年に聖トーマス教会のオルガニストになられた方です。その後、筆舌に尽くし難い困難を乗り越えて西ドイツに渡られ、エーマン教授共々夜を徹した討論の末、ヴェストファーレン州立教会音楽学校の設立に漕ぎ着けられました。戦後の混乱期に、心のエネルギーの源泉をシュッツやバッハに求めた先達たちのなかには、ハイルブロンのハインリヒ・シュッツ合唱団の創設者フリッツ・ヴェルナーもいましたが、敗戦の祖国復興の力を17世紀の音楽に求めた音楽家たちの存在は、私にとって驚きであり、感動であり、感謝せずにはいられない出来事の一つです。
 さて、東京のシュッツ合唱団も順調に進んでいるかに見えましたが、ここで思わぬことが生じます。私の夫がブラジルのリオ・デ・ジャネイロに赴任することとなったのです。悩んだ末でしたが、翌年の1月には第一子出産を控えてもいましたので、合唱団の活動を2年間休むことにしました。
 リオのヨーロッパ音楽の先駆的指導者であり、ボサノヴァの創始者アントニオ・カルロス・ジョビンに作曲を教えた方でもあるH.J.コルロイター教授が、丁度そのころ東京のゲーテ・インスティテュートの所長をして居られました。私はブラジルでも合唱を教えたいと思い、リオの音楽事情を伺いに教授を訪ね、お話をしているうちに、「あなたのいない間、私がシュッツ合唱団を教えましょうか」というご提案を戴きました。
 思いがけない展開を迎えたシュッツ合唱団は1971年4月7日、東京カテドラルにおいて、新旧指揮者による「受難楽の夕べ」を開催、淡野の指揮でシュッツのモテットを、コルロイターの指揮でシュッツ《ヨハネ受難曲》を演奏、鈴木仁(福音史家)、ヴァン・デ・ワーレ(イエス)、篠崎義昭(ピラト)各氏が共演して下さいました。以後1973年11月の淡野弓子帰国までコルロイター教授指揮の下に多くのコンサートが催されます。
 1972年はシュッツ没後300年を記念して三回の演奏会が開催されました。第一回は3月11日、広島の世界平和記念聖堂において、ドイツのオルガニスト、R.S.シリング氏とともにオルガン・ソロと《マタイ受難曲》による「受難楽の夕べ」、第二回は7月5日はモテット、ベッカー詩編、小宗教コンチェルト、《十字架上の七言》による「宗教音楽の夕べ」(於:東京カテドラル)、第三回はシュッツの命日である11月6日にモテット、ベッカー詩編、《イエス・キリストの復活の物語》が同じくカテドラルで演奏されています。シュッツの新しいレパートリーも着々と増えて行きました。
 さらに特筆すべきはこの三回のプログラムに寄稿して下さった方々とその充実の内容です。コルロイター、尾崎喜八、服部幸三、カール・フェッターレ、杉山好といった名だたる碩学諸賢のシュッツ礼賛、あるいはその歴史的、現代的意味についての貴重な証言は、別の機会に是非皆様方にもご紹介致したいと思います。
 1972年12月7日、私たちの活動を終始励まして下さったクラウス・プリングスハイム教授が亡くなられ、12月10日に五反田のドイツ語福音教会「クロイツ・キルヘ」で葬儀が行われました。コルロイター指揮シュッツ合唱団がシュッツのモテットを歌ってお送り致しました。私はまだリオにおりましたが、いいようのない感慨を覚え、その気持ちは今でも変わりません。(続く)

 Acta Sagittariana 2008/2009にハインリヒ・シュッツ合唱団・東京が大きく紹介されていることに、メンバーの皆様はお氣付きのことと存じます。毎年の日本支部報告では、必ず同合唱団の活動振りを紹介しております。昨年のオランダ・シュッツ・フェスティヴァルにおいても、同合唱団設立40周年が祝われたこと、またその記念コンサートにおいて、常任指揮者が淡野弓子さんから息子の太郎さんへ交代する旨が伝えられたことをお話しました。すると本部の事務およびActa Sagittarianaの編集をひとりで仕切っておられるフレーリヒ女史が、喜色満面、世界中の方にこの快挙をお知らせする記事を送ってくださいと、おっしゃったのです。女史は1985年のシュッツ生誕400年に際して、ドレスデンで演奏した同合唱団の存在に驚きを隠せなかったこと、その後1994年の第33回シュッツ・フェストに招聘し、再会を喜び合ったこと等を教えてくださいました。
 合唱団の40年は、国際ハインリッヒ・シュッツ協会日本支部の軌跡と重なることが多いと思います。また創設以来のメンバーの方一人ひとりの、バロック音楽、シュッツ音楽との触れ合いの歴史そのものでもあるかと思います。私が淡野弓子さんと初めてお目にかかったのは、彼女がドイツ留学から戻られたばかりの頃。私自身は留学準備のために大森のドイツ学校で語学を学びながら、五反田のドイツ・クロイツ教会カントライで歌っていた時のことでした。そしてドイツ・バロック音楽の研究者となるべく、一歩を踏み出した私の人生を決定したのも、学部学生として接したヴェストフェーリッシェ・カントライの、あの夜の演奏会だったのです。
 淡野弓子さんには、事務局ニュースの編集という立場から、40年という節目に文章をお寄せいただきたい、とお願いをしました。しかし多くの方の御助力、御支援を受け成長し、今に至った合唱団の活動振りは、とても短い文には収まりきれないものがあります。淡野さんと御相談して、連続掲載といたしました。御年配のメンバーの方は、自らの音楽人生を重ね合わせられることでしょう。また若いメンバーの方には是非、お伝えしておきたい内容が満載されることでしょう。どうぞ楽しみになさってくださいませ。(荒川恒子)

 トピックス Acta Sagittariana に掲載された記事より
日本へのシュッツ音楽紹介、その受容に多大な貢献をされたヴェストフェーリッシェ・カントレイのエーマン教授、さらには本協会日本支部長服部幸三先生の恩師、ヴィリバルト・ グルリット教授の名著が遂に出版されました。

Willibald Gurlitt. 2008 Michael Praetorius (Creuzbergensis): Sein Leben und seine Werke nebst einer Biographie seines Vaters, des Predigers M.Schulteis, edited by Jesof Floßdorf und Hans-Jürgen Habelt. Wolfenbüttel: Dr.J.Floßdorf.(45 €)
これはグルリット氏が1914年5月5日にライプツィヒ大学に提出された博士論文です。第一次世界大戦勃発のため、出版の機会が失われました。しかも氏自身も死闘を繰り広げたマルヌの戦場で傷つき、フランス軍の捕虜となりました。1915年にはライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社から第1、2章が出版されましたが、第3、4章はゲラ刷りのままとなっていました。そのゲラには御自身の校正の跡がみられますが、発刊には到りませんでした。それがなんと、フライブルク大学音楽学研究所の、グルリット教授遺稿の中に、整理番号 C101/218 として現存していることが、1990年にわかったのです。そこでフロースドルフ氏とハーベルト氏の編集のもと、初めて全著出版の運びとなりました。同書の注文は、フロースドルフ氏 Dr. Josef Floßdorfまで(jflossdorf@t-online.de)とのこと。まさに執筆からほぼ1世紀経っての出版に、感慨深い想いがあります。