ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(2)

会員 淡野弓子 

 クラウス・プリングスハイム教授 (Prof.Klaus Pringsheim)はミュンヘンの優れた数学者アルフレート・プリングスハイム教授の4番目の息子、そして双生児の兄として1883年7月24日に生まれました。妹はカチァと名付けられ、彼女はのちに作家トーマス・マンの夫人となります。
 クラウスはミュンヘン大学で数学と物理学を学び、終了後幼いころから続けていた音楽の道に本格的に踏み込むことを決意、ウィーンでマーラーの弟子になります。また個人的にはリヒアルト・シュトラウスとは父親の代から親しくしていたようです。
 さてマン夫人の子供たち、姪のエーリカと甥のクラウスが東京に立ち寄り、そこで当時の東京音楽学校の外人教師シャルル・ラウトルップがクラウス・プリングスハイムに自分の後任として日本へ来る気はあるか、との問い合わせを知り、伯父に伝えたのです。プリングスハイムはこの申し出を受け、48歳の時、東京音楽学校に赴任します。まことに歴史の流れとは異なもの、この彼の決心がなかったなら、私たち東京のハインリヒ・シュッツ合唱団の演奏が教授の耳に留まり、終始激励して下さったということも起こらず、私たちの自信なげな彷徨がさらに数年は続いたことでしょう。プリングスハイム教授の足跡は早崎えりな著『ベルリン・東京物語——音楽家クラウス・プリングスハイム』(音楽之友社1994年)に詳しく述べられています。

 さて1973年7月14日(土)バッハ《マタイ受難曲》の公演が東京カテドラルにおいて行われました。出演はソプラノ:マルガリータ・シャック(コルロイター夫人)、アルト:長野羊奈子、テノール:鈴木仁、バリトン:渡辺明、バス:宇佐美桂一、オルガン:河野和雄、チェンバロ:広野嗣雄各氏のお名前に続いて、合唱:ハインリヒ・シュッツ合唱団/グローリア少年合唱団、合奏:東京アカデミカー・アンサンブルメンバー、指揮:H.J.コルロイターと記されています。プログラム・ノートは磯山雅氏執筆による“《マタイ受難曲》の「偉大さ」の背景”、そしてコルロイター教授の“何故《マタイ受難曲》は小編成で演奏されるか”が掲載されています。
 磯山氏は、バッハは《マタイ受難曲》成立の前後に起こった価値観の大転換にも、その軸足を狂わせることなく、イエスの受難を内省的に捉え、聖書の語る一回性に立ち帰ることを重要視し、コラールを用いることによって共同体的基盤を確認したとし、さらに「数」を始めとする象徴を多々用いた点を高く評価した上で、象徴から物事の本質を読み取る能力にも言及しています。
 コルロイター教授は、バッハ時代に彼が編成した合唱と合奏の人数に触れ、メンデルスゾーンのバッハ《マタイ受難曲》蘇演以来、大人数のマタイが主流となってしまったことに異を唱え、合唱とオーケストラが小編成である時にのみ、彼の運声法および不協和音の緊張、掛留、対斜、偽終止を明確に、論理的に表現することが出来る、と主張しています。両者とも1973年という年代を考えると、かなり早い時期の、古楽復興へ向けての論調であることに驚かされます。演奏会当日は酷暑の一日で、聖堂内には氷の柱が何本も立てられ、それが終演時には床中水となって、カテドラルの方に叱られながら皆で雑巾がけをしたそうです。
 この年の11月14日(水)田園調布カトリック教会において、〈ハインリッヒ・シュッツの宗教音楽〉というタイトルのもと、シュッツの《ガイストリッヒェ・コーアムジーク》及び《カンツィオーネス・サクレ》からのモテット、ダヴィデ詩編、ベッカー詩編からの詩編曲、そして鈴木仁氏のソロで《シンフォニエ・サクレ》からのコンチェルトが歌われました。指揮はコルロイター教授です。当時ドイツでも、シュッツのみのプログラムは非常に難しいとされ、シュッツ祭のような特別の場合を除いては滅多に聴くことが出来ませんでした。東京では、兎に角シュッツの音楽を知って戴きたい、聴いて戴きたい、という気持ちで一杯でしたから、聴衆動員という見地でプログラムを組むということはあまり考えませんでした。コルロイター教授がゲーテ・インスティトゥートの所長でいらしたということもあって、ゲーテ・インスティトゥートからは有形無形の多大なる援助を戴いていたと思います。
 前回にもちょっと触れましたが、コルロイター教授(Prof. Hans-Joachim Koellreutter)は、ブラジルにおいて極めて先駆的な働きをされた方です。無調主義と十二音技法の使用を唱え、門下からはアンドレ・ジョビン、ゲッラ・ペイシェという優れた作曲家を輩出しました。1915年9月2日フライブルクに生まれ、ヒンデミットに作曲を、ヘルマン・シェルヘンから指揮法を学び、ジュネーヴでモイーズにフルートを学ばれ、フルーティストとして活躍されていました。その頃のドイツは丁度ヒトラーが勢力を伸ばしかけていた時期でした。当時コルロイター先生にはユダヤ人の婚約者がおり、そのことをゲシュタポに密告されてブラジルへ亡命、リオ・デ・ジャネイロに住むこととなりました。リオにはブラジル交響楽団というオーケストラがありますが、教授はこのオーケストラの設立に関わり、第1フルート奏者を務められたとのこと、このことが、そののち私たちの周りに起こった出来事と深く関係してくるのです。

 1971年1月17日、東京で長女桃子が生まれました。3ヶ月になった彼女を抱いてヴァリグ航空で27時間、リオに到着。早速コルロイター先生にご紹介戴いた作曲家ゲッラ・ペイシェ氏にお目にかかり、氏が館長をしておられた「Museu do imagem e som映像と音のミュージアム」という研究機関の一室で合唱を教えることとなりました。14、5名の人がすでに私を待っていてくれました。着いたばかりでポルトガル語もまともに喋れない私が、なんの怖れも無くすぐに皆と気持ちを通じ合わせることが出来たのは、なんといっても底抜けに明るく、心も腕も大きく広げ、新しい指揮者を受け入れてくれたカリオカ(リオっ子)のお蔭です。その上ブラジルは人種のるつぼですから、私が日本人の女性であることなどは最初から問題ではありませんでした。
 問題なのは、「勤勉」「努力」という言葉がリオには存在していなかったことです。日本とリオは時差12時間に始まってすべてが真っ逆さまでした。日本では、先ず緊張をほぐし身体を緩めることから練習が始まりますが、リオでは「não relaxar, direito a pe 身体を緩めず、真っ直ぐ立って下さい」という言葉が最初です。放っておけば彼らは24時間リラックスしていたでしょう。
 この合唱グループにシュッツの音楽を歌ってもらいたい、というのが私の夢でしたから、まず皆の好きそうなモンテヴェルディのマドリガルの練習を始め、徐々にシュッツの、旋律の美しいモテットに移行しようという計画を立て、毎週1度練習場へ通いました。
 こうだったからこう、こうでなかったら恐らく、とはあらゆる人の人生について回る言葉でしょう。しかしリオを背景に起こった一連の出来事と、それらがきっかけとなって、新たに起こった人との繋がりなどを思い返してみますと、偶然というにはあまりにも不思議な、運命的なものを感ぜずにはいられません。またこの合唱を中心に回り出したおよそ2年7ヶ月に亘るリオの生活も、のちのちのシュッツ合唱団の歴史に関わってきますので、いずれ稿を改め、詳しく記したいと思っています。

 1973年11月、私たち家族はやっとブラジルから引き上げて来ることとなります。リオでは1972年4月17日に長男太郎が生まれ、最初夫が一人で赴任した淡野家は4人となっていました。さらに子供たちの世話のために、日本に来てくれたマリーナというブラジル人の娘を加えると5人家族、この5人が練馬区早宮にあった社宅にひしめき合っていた数年は大騒ぎの毎日でしたが、この心根の優しいマリーナのお蔭で、私はすぐにシュッツ合唱団の仕事に復帰することが出来たのです。
 翌1974年6月30日(日)シュッツ合唱団は第9回立教小学校チャペルコンサートに出演、前半は三沢栄一指揮、チャペル・コンサート・オーケストラによるヴィヴァルディの《合奏恊奏曲ニ短調》とバッハの《ブランデンブルク第6番》、後半は淡野弓子指揮、シュッツ合唱団によるシュッツのモテット3曲、バッハのカンタータ第39番《飢えたるものにパンを裂き与えよ》が演奏されました。この時の合唱団メンバーは女声19名、男声15名の計34名、この中で2009年現在、現役の人は女声5名、男声2名です。オーケストラはヴァイオリン7名、ヴィオラ4名、チェロ2名、コントラバス1名、ブロックフレーテ2名、オーボエ2名、チェンバロ3名、打楽器1名の計22名、このうち今もユビキタス・バッハの名のもとに、杉並区の本郷教会で〈教会暦によるバッハ・カンタータ・シリーズ〉で共に演奏している奏者が4名います。合唱、オーケストラ共35年経った今、およそ5分の1の人が残っているのは興味深くも嬉しいことです。またこの日、このオーケストラの打楽器奏者で、後に立教小学校の校長となられた田中司さんが「このチャペルでシュッツの《クライネ・ガイストリッヒェ・コンチェルテ》が歌われることが僕の夢です」と仰ったのには本当に驚きました。田中さんは立教大学で辻荘一先生からシュッツの《クライネ・ガイストリッヒェ・コンチェルテ》についての講義を受け、この「小・教会コンチェルト集」全曲の楽譜を揃えて、わくわくしていたとのことです。
 同年9月28日(土)オルガニストの広野嗣雄氏とシュッツ合唱団のジョイントで〈宗教音楽の夕べ〉——「いのちの電話」のためのチャリティコンサート——が開催されました。オルガン・ソロでブルーンス、スヴェーリンク、バッハの作品、合唱はシュッツの《ダヴィデ詩編84》、ディストラーの《主に向かって新しい歌を歌え》、バッハの《イエス、わが喜び》が演奏されました。フーゴー・ディストラー(1908-1942)は、彼の横顔のスケッチがヴェストファーレン教会音楽学校の応接室の壁に掛けられており、「誰ですか?」と尋ねると「フーゴー・ディストラー!」と誇らしげな答。ここで初めてその名前と、恐らく「全身針の山」といった緊張の漲る彼の風貌を知ったのです。シュッツ以来の伝統に立ち乍ら、斬新なハーモニーと刺激的なリズムに彩られたディストラーのモテットは異常なまでに美しく、シュッツと並んで是非とも紹介したいと切望していたのですが、異なる調性の和音が同時に鳴り、そのどちらも純正に響く、というハーモニーに、2拍子と3拍子が入り乱れ且つフーガで進むため、各パートが全く違うリズムで同時進行し、それらがすべて鮮明に聴き取れねばならない、といった作業は相当に難しく、当初は全く歯が立ちませんでした。1974年に初めて演奏していますので、ポートレートとの初対面以来10年が経過したことになります。
 このコンサートから3週間3日目の1974年10月22日(火)、東京文化会館小ホールにおいてハインリッヒ・シュッツ合唱団演奏会—— シュッツ+ディストラー ——が開かれました。シュッツの処女作《イタリア風マドリガーレ作品1》から〈おお、春よ〉を初めとする4曲のマドリガル、続いてディストラーの《メーリケ・コーアリーダーブーフ作品19》から4つの合唱歌曲、この中には〈炎の騎手〉という、いまだに手こずっている難曲が入っていることに驚かされます。休憩後はシュッツの三重合唱《詩編100》、ディストラーの《ガイストリッヒェ・コーアムジーク 作品12》より〈主に向かって新しい歌を歌え〉、最後にシュッツの《ガイストリッヒェ・コーアムジーク》(1648)より4つのモテットという、前半世俗曲、後半宗教曲でシュッツとディストラーを交互に組み合わせたプログラムでした。
 メンバー表には SI:6、SII:6、A:8、TI:3、TII:4、B:5の計32名の名が載っており、その下には「練習生」とのタイトルで、SI:5、SII:5、A:3、TI:3、TII:3、B:3の計22名が名を連ねています。今私は改めてびっくりしておりますが、この「練習生」の中の4名は今現在も現役のメンバーです。
 「練習生」の募集というアイディアには、ブラジルでの体験が大きな力となっています。地球の裏側で過ごし、そこでさまざまな人種の声に触れ、観察するなかで、私は一つの確信を与えられました。その確信とは、「人間で在る限り誰の声とも合う」というものです。「誰の声とも合うのだから、誰とでも合唱が可能」なのです。しかしここには条件があります。それは「決して自分の声を自分の趣味で作らない。自分に与えられた声、持って生まれた声に出会うまで、自分自身の探求を怠らない」というものです。
 「出会うまで」とは言っても、時間の中で生きている人間は、昨日と今日では人が違うので、昨日「これだ」と得心しても、明日はその得心したはずの自分がすでになにがしかの成長または退化を遂げ、またもや違う目や耳、皮膚や骨、さらに骨の髄が昨日のゴールではないゴールを要求します。要するに終わりのない作業が死ぬまで続くのです。
 このようなことを、初めて出会った人々と共に考え探求し、訓練を積み重ねたいと思い、1974年7月シュッツ合唱団としては初めての「練習生の公募」が実現したのです。朝日新聞夕刊の文化欄で「公募」が知らされ、東京およびその近郊の16歳から47歳に至る男女20数名が集まり、「練習生」として一グループを成して合唱をして行く上での基本訓練が始まりました。この「練習生」に伝えたことは、練習生として参加された山下みはるさんという方が克明な記録を残して下さり、それはのちに『合唱修練』という小さな本にまとめられました。紅い表紙のこの小冊子は、合唱に親しむ方、また不思議なことに、病床にある方に好まれ、1976年の初版以来3版を重ねています。今は亡き山下みはるさんの霊と魂に、万感の思いを込めて「安らかに」と申し上げ、感謝を捧げます。
 さて― シュッツ+ディストラー ―のコンサートはこの練習生を交えてのコンサートでした。練習生はシュッツの三重合唱と何曲かのモテットを一緒に歌ったのだと思います。彼らはこの日のために数曲を繰り返し練習し、それは大きな期待を持って本番に臨んだのでしたが、シュッツ合唱団の方はその何倍もの曲で、しかも難しいものでしたので、「練習生」の人たちを暖かく迎える余裕もなく、終演後の反省会では、一つの曲にかける情熱や、実際の練習量に差があっては一緒に歌えない、ということが練習生の側から出され、問題となりました。歴史を重ねれば重ねるほど新人とのギャップは広がりますので、これからも常に考えて行かねばならぬ問題です。
 クリスマスには国際基督教大学のクリスマス音楽会にお招き戴き、12月15日(日)、オルガニストの酒井多賀志さん、チャペル・コンサート・オーケストラと共にM.プレトリウスのコラールと舞曲、シュッツのモテット、詩編100、ブラームスのモテットに、ダカン、バッハのオルガン・ソロ、ヘンデルのオルガン・コンチェルトなどを演奏しました。シュッツ合唱団にはオルガニスト、ガンビスト、音楽学者など、声楽家ではない音楽の専門家がメンバーとして歌っている、ということが多いのですが、酒井多賀志さんも一緒に歌って下さっていました。

 1975年のコンサートは3月19日東京カテドラルにおける受難楽から始まりました。プログラムはオール・シュッツで、《ガイストリッヒェ・コーアムジーク》(1648)よりモテット3曲、《12の宗教歌》より〈聖晩餐開始の言葉〉、それに《マタイ受難曲》でした。ソリストは福音史家:鈴木仁、イエス:ヴァン・デ・ワーレ、ピラト/ユダ/ペトロ:篠崎義昭という方々です。イエス役のワーレ氏は当時カトリック松原教会の主任司祭であられた方で、ベルギーのご出身です。話はやや遡りますが、芸大時代にピアノを教えて戴いた水谷達夫先生は私に、音楽とはなにか、ということをレッスンのたびに語って下さいました。その中で強く記憶に残っているのは「「イエス」を歌うということは、歌い手の最終目的だろうね」と仰ったことです。「役」に成り切る、とは良く言われる言葉ですが、「イエス」に成り切るとしたら・・・?
 そう、ワーレ神父の声が響き渡ると、エーテルとなった「イエス」がカテドラルの聖堂内に満ち溢れるのでした。声楽も音楽も超えた時空、このテーマもシュッツ合唱団の日々の練習が目指した一つの世界でした。
 この日は「練習生」も目出たくシュッツ合唱団メンバーとして記録されています。SI:10、SII:10、A:10、TI:5、TII:6、B:8 の計49名という大所帯、この中にはスペインから来られたアンドレス・ガルパルソロ神父の名も見えます。
 この演奏は各界に波紋を呼び、ライヴ録音がLP化されることとなりました。コジマ録音からALM レコードとしてリリースされ、皆川達夫先生はこのシュッツの《マタイ受難曲》をご自身の解説によるラジオ番組でも取り上げて下さいました。中学生の時にこの放送を聴いてシュッツに興味を持った、とは鍵盤奏者武久源造さんの証言です。このLPは2003年に復刻CD[ALCD-3]として復活しています。

 この年の9月10日(水)青山タワーホールにおいて「ハインリッヒ・シュッツ合奏団演奏会」が開かれました。「合奏団」誕生の経緯は、日のプログラムにリコーダーとファゴットのメンバーであった蘆野豊さんが「チャペル・コンサート・オーケストラからハインリッヒ・シュッツ合奏団へ」と題して詳しい経過を綴って下さっています。
 「チャペル・コンサート・オーケストラ」とはすでに1971年から始まっていた器楽グループで、作曲家三沢栄一氏を指揮者とし、主として立教小学校のチャペルで毎学期一回小学生のためのコンサートを開いていました。1973年、三沢氏が東京から甲府に居を移され、その後淡野弓子が指揮に当たることとなりました。1974年1月のことです。
 シュッツのような、声楽と器楽が未分化のころの音楽は、各声部が歌われても、奏されても良いというものが多いので、常に一緒にいる歌い手や奏者が自由に声部を交換しながら音の響き具合や和音の効果を試せるという状態が理想です。このような練習が出来たらという願いから、シュッツ合唱団の姉妹団体として、シュッツの名をいただく「合奏団」が誕生し、初めての演奏会を迎えたのでした。
 プログラムは前半がヘンデルの《コンチェルト・グロッソOp.3-1》、馬場自由郎氏をソリストにお迎えしてヴィヴァルディの《ファゴット恊奏曲》、バッハの《ブランデンブルク恊奏曲第3番》という器楽曲、後半がシュッツの《ガイストリッヒェ・コーアムジーク》(1648)より声のパートと器楽のパートが入り交じった編成のモテット4曲(第24、26、27、28番)に、それまでア・カペラで歌っていた第20番《Das ist je gewißlich wahrそれはまことのまこと》に楽器を交えて演奏しました。このような演奏法や楽器の選び方はエーマン教授の専門分野で、ヘルフォルトの教会音楽学校では日々学んでいたことでしたが、日本で実際に演奏するまでには10年かかったことになります。いずれにしろシュッツ合唱団にとっては初めての演奏体験でした。
 次のコンサートは9月29日(月)「H.J.コルロイター教授 送別演奏会」でした。1971年1月から1973年11月までシュッツ合唱団をご指導下さったコルロイター先生が、リオ・デ・ジャネイロへお帰りになることとなったのです。
 私たちは先生の組まれたプログラムを先生の指揮で歌いたいと思い、選曲をお願いしました。出来上がったプログラムはパレストリーナからストラヴィンスキー、そしてコルロイターの作品まで、様式の歴史を辿りつつも演奏順序は対照的な様式と隣合わせになる配列で、ヴェルディ《アヴェ マリア》に始まり、パレストリーナ→ストラヴィンスキー→シュッツ 以上宗教曲、休憩後はシュッツ→ラヴェル→ブラームス→コルロイター 以上世俗曲という凝ったものでした。ヴェルディの《アヴェ マリア》は、ヴェルディが「謎の音階」と名付けたスケールが定旋律となって各パートに現れる曲で、半音階の扱いが難しく、ラヴェルの《三つの歌・・・ニコレッタ/パラダイスの三羽の美しい鳥/ロンド》もそれは素敵な音楽ですが、フランス語も含めこれもまた簡単ではなく、先生もどれほど苦労されたことでしょう。
 最後の、コルロイター先生の作品は、紀友則の和歌「久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらん」につけられた合唱曲で、シュッツ合唱団と私のために書いてくださったものです。和声も対位法も使われておらず、音の沈黙しているところになにものかが生かされねばならない、と解説されたこの作品は、音の進行や音そのものに意味を込めようとする西洋の音楽の対極にあるものでした。 先生は2005年9月13日、ブラジルのサン・パウロで90歳の生涯を閉じられました。(続く)