ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(6)

会員 淡野弓子 

 この連載も6回目となりましたが、今までのような書き方ではシュッツ合唱団の現況に至る前に私の寿命が尽きることが判明、今回からコンサート・プログラムの表示などを縮小して先を急ぎたいと思います。

 武久さんはシュッツ合唱団のメンバーとして歌うようになり、1982年4月24日(土)、石橋メモリアルホールでのコンサートでは通奏低音奏者としてチェンバロを受け持ちました。曲目はディストラーの《コラール受難曲》とシュッツの《イエス・キリスト復活の物語》でした。武久さんと共に演奏するときには、まず彼のための楽譜を作るところから始めねばなりません。歌う箇所も弾く箇所も目の見えるものがピアノで弾き、歌詞は口で伝え、それを彼が点字して初めて譜面が完成します。歌は点字を指で読みながらでも歌えますが、鍵盤は全曲暗譜せねばなりません。彼自身は無論のこと、共演者も生半可ではいられませんでした。またこのコンサートでは鈴木仁、池田直樹、宮原昭吾さんがソロ、福沢宏、石川かおり、斉藤由香、上村かおりさんがヴィオラ・ダ・ガンバで共演して下さいました。斉藤さん、上村さんはまだ大学生でした。
 このコンサートの4週間前3月26日(金)はバッハ・コンソート第6回目の公演、バッハの《ヨハネ受難曲》でした。ソロ: [S]酒井美津子、[A]近藤恭子、[T]鈴木仁、[T]篠崎義昭、[B]池田直樹、[B]宮原昭吾、 器楽:[Vn]小渕晶男/小穴晶子、[Va]生沼誠司、[Vdg]福沢宏、[Fl]市岡正適/小俣達男、[Ob]永峯常道/宮本忠昌/緒方暲子、[Fg]蘆野豊/桑原優子、[Vc]井出丈夫、[Cem]松本憲子、[Org]河野和雄の皆々様、プログラム掲載の訳詞は今年9月天に召された杉山好先生の文語訳です。最後に先生にお目にかかったのは亡くなられるひと月ほど前でしたが、「元気だったらあなたのコンサートに行くのにね」と。
 杉山先生からお教え頂いたことは、とても書ききれるものではありません。博覧強記であられたばかりでなく、先生のそれは一つひとつの事柄の奥行きが深く、さらにその相互が思わぬ繋がり方をしていて、一つの質問が十倍、百倍の力となって私たちに返ってくるという風でした。直接お話して頂くことはもう叶わないとはいえ、これまでに与えて下さったことを私の一生の間に使い切ることは出来ないでしょう。この日のチェロ奏者井出丈夫君もヨーロッパ留学中に交通事故で神の許へ召されました。彼については後に触れることと致します。
 7月17日(土)再び石橋メモリアルホールでバッハ・コンソート第7回が開催されました。カンタータ第45番《人よ、汝はさきに告げられたり》(ソロ: [A]兎束紗枝、[T]鈴木仁、[B]池田直樹)、第56番《われは喜びて十字架を負わん》([Br.Solo]池田直樹、[Ob]宮本忠昌)、《ブランデンブルク協奏曲第4番 ト長調》([Vn]瀬戸瑤子)、カンタータ第76番《もろもろの天は神の栄光を語り》という、元気の良過ぎるプログラムでした。武久さんはこのうち3曲の通奏低音を受け持っていました。杉山先生は『天然と歴史による神の啓示と十字架の福音−−−−バッハ・カンタータにみる旧約的世界と新約的消息』というタイトルの綿密にして広大な解説をお寄せ下さっています。
 秋になり、9月24日(金)18:30 東京カテドラルにおいてシュッツの《ダヴィデの詩編曲集1619》全26曲の演奏会を開催しました。ジョヴァンニ・ガブリエリに教えを受けたシュッツはドイツに帰ると、もともとラテン語の文法に添って学んだモテットの作曲法をベースに、ドイツ語でポリフォニーを作ることに挑み、見事に成功します。そればかりか、彼の音楽における言葉と音の結びつきは実に生気に富み、リズム、和声などなど未だにシュッツを凌駕する人物は現われていないといってよいほど、完成度の高い複合唱作品です。エーマン先生がメッセージを寄せて下さいました。面映い箇所もありますが、シュッツ合唱団全体に頂いたお言葉と受け止め、今は亡きエーマン先生に敬愛と感謝を込めて、ここにその全文を掲載させて頂きます。
  尊敬し又 愛する淡野さん!
 ハインリヒ・シュッツの《ダヴィデの詩編曲集》を演奏するという誇り高き計画にアッと驚き、あなたに私の最良の祝辞と挨拶を贈ります。
 この作品は、単にドレスデンの天才的な宮廷合唱長の最も華麗にして多面的な作品であるというばかりでなく、ヨーロッパ初期バロックを通じても同様のことが言えるでしょう。
 さて、私が東京で開かれた国際音楽会議に招かれ、私の合唱団−−−ヴェストフェーリッシェ・カントライと共に演奏して以来二十年を迎えようとしております。この時のプログラムにも、この《詩編曲集》よりの一曲(註:〈我 山に向かいて眼を上ぐ〉)が含まれておりましたが、恐らくこの作品が、あなたを私のヘルフォルトの音楽研究所(註:現・ヴェストファーレン州立教会音楽大学。エーマン教授はこの学校をシェーンステット教授らと共に創設)での勉学に導いたのでしょう。
 あなたによってこの音楽のもたらした航跡を辿れることは、常に私にとっても、又同僚であるオルガニストのアルノ・シェーンステット教授にとっても喜びであります。
 異なった文化をもつあなたの国で、これ程の能力と、これ程のエネルギーとによって、シュッツの合唱作品を人々に知らしめていった人を、私はあなたのほかには知りません。
 この成長のあとを書簡、新聞、プログラム、録音テープ、レコードなどを通じて辿ることが出来るのは、私にとって喜ばしいことでした。同時に、長年理事を務めております「国際ハインリッヒ・シュッツ協会」の名においても、私はあなたに心からの感謝を申し述べます。
 すべてのヨーロッパの合唱団が、この「ドイツ音楽の頭に霜置く父」又、誰もが認める「ドイツ第一の音楽家」の音楽を、あなたの合唱団ほどの確固たる様式感をもって演奏しているとはいえません。
 どうか、あなたの有能なる歌い手の方々、又、奏者の方々に私からの挨拶をお伝え下さい。
 もう一度、私の心からなる挨拶と祝意をこめて。   25.8.1982 エーマン(Prof.Dr.Dr.h.c.Wilhelm Ehmann)
  合唱・器楽アンサンブルは「シュッツ合唱団」と「バッハ・コンソート」「ソロ・アンサンブル」( [S]石塚瑠美子、[A]淡野弓子、[T]鈴木仁、[B]宮原昭吾)、器楽:[Trb]和田美亀雄/小田桐寛之/福神浩貢/門脇賀智志、通奏低音:[Vdg]上村かおり、[Vc]進藤くみ子、[Fg]蘆野豊、[Kb]片柳茂、[Cem/Org]武久源造/松本憲子、[Org]湯口依子でした。この頃ピリオド楽器といえるのはヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ/オルガンのみ、あとは全部モダンです。本来こういう響きなのだろうと想像は出来ても、楽器も奏者もいない時代でした。私は、ただただシュッツという作曲家の全貌を知りたいという欲求から、不完全を承知で次から次へと演奏し続けたのでした。
 出演メンバーはシュッツ合唱団 [SI]9、[SII]7、[A]11、[TI]4、 [TII]3、[B]8、バッハ・コンソートは[S]8、[A]7、[T]4、[B]5、[Vn]6、[Va]2、[Vc][Kb] [Vdg]各1、[Cem]&[Org]3、[Fl]2、[Ob]2、[Trp]1、[Trb]4で、合唱2グループ66名、器楽23名という今では信じられない大世帯でした。この中で合唱、器楽兼任は上村かおりさん、武久源造さん、松本憲子さんの3人でしたから、総勢86名が演奏したことになります。この時期のメンバーで現役は玉井千恵、阪本恭子、巽瑞子、山田みどり、松井美奈子、佐藤道子、武藤和明、石塚正、阪本一郎、大森雄治、中村誠一の皆さんです。感謝の言葉が見つかりません。
 この頃、旧東ドイツの芸術省から、1985年シュッツ生誕400年、バッハ、ヘンデル生誕300年の記念行事にあたり、東京の「シュッツ合唱団」のコンサートを数都市で行いたい、という思いがけない話が舞い込んできました。あっけに取られているうちに、プログラムを数種類送るようにとのことで、私たちはシュッツのモテットにオルガン・ソロを組み合わせたものと、バッハの《ヨハネ受難曲》を提出、すると次々に日時と会場が知らされてきたのです。驚いたことに、ベルリンのシャウシュピールハウス、ドレスデンのゼンパーオペラ、ライプツィヒのゲヴァントハウス、フライベルクのドームなどなど気の遠くなるようなホールと教会です。とはいえ3年先の話ゆえこの時点ではゆったり構えていたのでした。
 11月27日(日)には市川聖マリア教会で教会コンサートをさせて頂きました。
バッハ《モテット第1番−−−主に向かいて新しき歌をうたわん》

《コンチェルト−−−フルート、ヴァイオリン、チェンバロと弦楽》
([Fl]市岡正適、[Vn]小渕晶男、[Cem]武久源造)

《カンタータ第93番−−−ただ神の摂理に委ねる者》
(ソロ: [S]石塚瑠美子、[A]羽鳥典子、[T]鈴木仁)
を演奏しました。教会員の太田純子さんが、バッハ・コンソートのヴァイオリン奏者でもあったので実現したものです。
 明けて1983年3月23日(水)「シュッツ合唱団」と「バッハ・コンソート」は東京カテドラルにおいてバッハ《マタイ受難曲》(ソロ: [S]桜井偕子/石塚瑠美子、[A]荒道子/羽鳥典子、[T]鈴木仁/篠崎義昭、[B]池田直樹/宮原昭吾/斉藤俊夫、[Org]武久源造/湯口依子、[Cem]松本憲子ほか)を演奏しました。ソプラノの桜井偕子さんはマエストロ クルト・マズーア(Prof.Dr.Kurt Masur 1927- )と結婚し、ライプツィヒのメンデルスゾーン音楽大学で声楽を修め、当時4、5歳だった一人息子デイヴィッド君を連れて一家で日本に来ていたのです。御殿場の東山荘で合宿をし、マズーア氏が私たちの練習を見守って下さったことを思い出します。マエストロはただ聴いておられる丈でしたが、皆の音は集中力が増してどんどん良くなり、指揮者というものの存在の意味を知らされるひとときでした。それからも氏はことあるごとに私たちの演奏をお聴き下さり、ついこの間(2011年11月18日)も83歳になられたマエストロがカテドラルでのコンサート〈レクイエムの集い〉にいらして下さったのには驚き、感謝の気持ちで一杯でした。
 7月の末には、“Fire,fire, my heart!”と題した夏の演奏会を開きました。《マタイ》のような大きな曲の終わったあとに、身体を緩め心を遊ばせるために、小さなアンサンブルの曲を集めたプログラムでした。取り上げた作曲家はジョスカン・デプレからテレマンまでの11人、国はイタリア、フランス、イギリス、ドイツ、250年4カ国を2時間で駆け巡ったのでしたが、全員が嬉々とした時を過ごすことが出来ました。
 プログラム・ノートに私は「ア・カペラの合唱ではバスのパートから立ち昇る自然倍音を基準にしながら、T,S,Aの各パートが重なり更に倍音を増し加えて声の森が出現する。(中略)各声部の独立は守られながら全体の響きの中では融和あるのみ、といった自然現象と人間の意識、知恵との驚くべき結合がここに在る。」と記しています。当時倍音はバスから発生すると思っていたのは、基音がバスの場合は第5倍音ぐらいまではっきりと人の耳に聴こえるからなのですが、当然のことながらテノール、アルト、ソプラノからも倍音は生じます。高い倍音を聴きとるのは人の聴力に限界があってなかなか難しいのですが、前回述べたように武久源造さんの耳は遥か彼方の倍音をキャッチしているようです。
 倍音がすっと立ち昇るには、歌い手全員の発声がひとつのメソッドである必要があり、そのメソッドは特殊なものでなく、時や場所を超えて普遍的な理論を土台にしたものでなければなりません。2009年に「人の声は倍音の法則に支配されている。」というヘルムホルツ(Hermann von Helmholz 1821-1894)の理論に辿り着き、この研究によって編み出されたセディエ(Enrico Delle Sedie 1822-1907)のメソッドによって、やっと合唱団の声が整ってきました。「もっと早くに分かっていれば」とは思いません。過去のいかなる時にも、ヘルムホルツやセディエをスッと理解することは出来なかったでしょう。今、ここに辿り着いたことに感謝あるのみです。
 この年の夏、私はハラルド・フォーゲルの主宰する「北ドイツ・オルガンアカデミー」に参加し、オスト・フリースラント地方に遺されている歴史的オルガンの音を直に聴くことが出来ました。この時、人の声は共に鳴っている楽器の音によって変わる、という体験をし、‘耳’が人の声に密接に関係していることを知ったのです。これは後にフランスのトマティス博士(Alfred A. Tomatis 1920-2001)の研究–––聴覚と発声の相関関係を明らかにした理論–––によってより明確に理解することが出来ました。この理論に従えば、合唱は一人ひとりの声に共に歌う人の声がすべて融合している世界ということになるのです。
 秋にはシェーンステット先生が来日され、10月30日(日)東京カテドラルにおいて〈オルガンと合唱の夕〉を催しました。プログラムは夏の旅の最後にヘルフォルトにお住まいの先生をお訪ねし決めたもので、バッハ、レーガー、ブラームス、J.N.ダヴィッド、メンデルスゾーンという、今見れば ‘ドイツ’の音楽がギッチリと詰まった重厚この上ない内容でした。
 メンバー表には「シュッツ合唱団」に「バッハ・コンソート」合唱陣のメンバーも加わっていて、58名( [SI]11、[SII]9、[A]17、[T]7、[B]14)というものものしさです。恐らく、2年後のドイツ演奏旅行を考え、シュッツの歌える人材を多く育てたいと思ったのでしょう。またここにはブラジル人Regina M. Partel嬢、ドイツ人故Dr.Eberhard Bayerのお名前も載っています。同じくドイツからこられた村田Ingeさんはすでに長らくアルトのメンバーでした。
 1984年、自分たちの活動を合唱のみに限らず、一つの大きな目標の中で、いろいろな音楽家を交えて演奏して行こう、との願いから音楽グループ‘ムシカ・ポエティカ Musica poetica’が発足しました。‘ムシカ・ポエティカ’とは音楽詩学、音楽創作学のことで、16世紀の北方ドイツで起こり、聖書の言葉を誤解の余地なく音楽で伝えたい、という意思を持ったシュッツ、バッハらのような作曲家によって推進された作曲法です。私たちは現代の日本においてこの精神を尊重し、研究し、教え、創り、演奏して行こうと考えたのです。
 1984年を迎え2月3日(金)石橋メモリアルホールにおいて、モンテヴェルディからバッハまでのプログラムで第1回〈オルガンと歌の夕べ〉([Org/Cem]武久源造、[M.Sop]淡野弓子)を開催しました。‘Musica poetica’主催の初めてのコンサートでもありました。私が歌を歌うというので、合唱団には相当の動揺を与え、「裏切られた」というような言葉も聞こえてきました。当時の私の歌が指揮をするのと同じレヴェルに達していなかったのは自分でも良く承知していましたし、このコンサートでの歌唱も感心したものではありませんでした。しかし私は自分が歌を歌えるようにならなければ合唱団の未来はないと考え、どんなに批判され恥をかいても納得のゆくまでは歌の道を続けてゆこう、とこの日決心を新たにしました。
 このコンサートの模様は雑誌『婦人之友』にグラビアで紹介され、その時の撮影者風間久和さんは、以来ずっと私たちの演奏をお聴き下さり、今も演奏会の記録写真を撮って下さっています。
 3月30日(金) 同じく石橋メモリアルホールにおいて、〈受難楽の夕べ〉を開催、シュッツとディストラーのモテット、ラッソの《マタイ受難曲》([福音史家・[T]鈴木仁、[イエス・B]池田直樹)、最後にシュッツの《12の教会歌》から‘キリエ’を歌いました。福音史家とイエスは、カトリック教会の典礼で用いられた‘Cantus Passionis’の旋律−−グレゴリオ聖歌−−−がそのまま朗唱され、弟子たちや群衆の台詞が合唱で歌われる形式です。暗さが全くなく、抜けるような清澄な和音に驚きました。合唱団員は[SI]11、[SII]10、[A]17、[TI]7、[TII]7、[B]10、総勢62名という信じられない数です。
 5月1日(火)にはバッハ・コンソートの演奏会が石橋メモリアルホールで開催されました。バッハの《ミサ曲イ長調》、カンタータ第11番《昇天祭オラトリオ》との間に《三台のチェンバロのためのコンチェルト ハ長調》[Cem]武久源造/湯口依子/松本憲子)が演奏されています。
 5月6日には〈カテドラル オルガンの夕べ〉で持田昌子さんがブクステフーデ、バッハ、ボエルマン、ヴィエルヌのオルガン曲を弾き、私はラングレの《ミサ》を歌いました。持田さんはヘルフォルトでシェーンステット教授に学び、その後ケルン音楽大学でシュナイダー教授に師事、帰国後五反田ドイツ教会のオルガニストとして働いています。私たちは今でもよく話をし、ハインリヒ・シュッツ、J.S.バッハらの音楽がドイツを生き返らせる、との信念に基づいて行動した師匠たちにタッチの差で出会えた幸いを喜び合っています。
 秋、9月13日(木)中央会館において、[S]嶺貞子、[A]佐々木まり子、[T]佐々木正利、[B]故斉藤俊夫の諸氏をソリストに迎え、ヘンデルの《エジプトのイスラエル人》を演奏しました。当時藝大で教えておられたアロイス・バンブーラ教授Prof. Alois Bambula (1911-2005)が、アルト・トロンボーン奏者として弟子の萩谷克巳さんや杉山直樹さんと一緒に演奏して下さいました。バンブーラ教授はシュッツの都ドレスデンから来られた方で、私たちの活動をことのほか応援して下さり、離日に際して2本のバロック・トロンボーンをシュッツ合唱団に、と置いて行って下さいました。この頃から金管はピリオド楽器、弦はモダンという混合で演奏するようになりました。この編成はヴィルへルム・エーマンが1960年代にヘルフォルトで採用していた方法です。

 この頃大変なことが二つ起こります。
 一つは、「東で歌うならその前に西でコンサートを」というシェーンステット先生のご要望で、東西ドイツ合わせて3週間に近い旅に膨らみ、さらにハムの教会のカントルであられたシェーンステット先生のご子息ロルフさんProf.Dr.Rolf Schönstedt (1944- )からは、日本人の作品を加えて欲しい、との特別の要請があったことです。私は頭を抱え込んでしまいました。シュッツと並べて演奏し、成功に導ける作品を探すのは容易なことではなかったのです。ドイツからは矢の催促です。言い訳をしているうちに私は、西欧の人に日本の西洋音楽受容の歴史を説明する必要を痛感したのです。
 ハタとひらめいたのは柴田南雄作曲《宇宙について》でした。第1章から第7章の間に、グレコリオ聖歌、オルガヌム、バロック、古典派、20世紀の12音、無調など、声の音楽のさまざまな形式が網羅され、西洋人が音楽で何を考えて来たかが一望出来る仕組みです。さらにテキストは各国の創世造神話、日本書紀(古文と現代文)、クザーヌス(ラテン語と日本語)、隠れキリシタンのおらっしょ、世界中の礼拝歌、そして華厳経までもが次々と現れ、重なり合って、この宇宙の多様性と独自性を立体的なパノラマとして見せ聴かせてゆくのです。
 この曲をドイツで、という話にシュッツ合唱団は火のついたような騒ぎとなりました。これまでの純正調、透明な声などというものは木っ端微塵だろう、頭の中も滅茶苦茶にされるのでは、という意見に始まり、この曲を歌うなら退団すると言った人も一人や二人ではありませんでした。しかしドイツ側の要請に「これが日本人の辿って来た道程、そして今です。」と胸を張って言える曲は《宇宙について》しかない、と私は確信し強行突破を決意しました。
 もう一つは、東ドイツで演奏予定であったバッハの《ヨハネ受難曲》なのです。オーケストラのメンバーが「長い期間の旅行は無理」ということで、「ドイツには行けない」という結論となったからです。演奏出来る曲目はア・カペラの合唱曲とオルガンのソロのみとなり、契約の変更を願い出るべく、私はドイツへ向かいました。当時東独とのやりとりは困難を極め、手紙の返事はいつ来るか分からず、電話は通じなかったのです。東独へすんなり入れるという保証はありませんでしたが、まずは西ベルリンの友人、新井眞澄さんのお宅に泊めて頂き、そこから毎日東ベルリンの芸術省へ電話をかけたのですが、ここからも一向に通じません。受け入れて貰えるかどうかは分からないとはいえ、《ヨハネ受難曲》に代わる新しいプログラムをいくつか作成し、私は毎日電話の繋がるのを待っていました。
 何日待っても電話は繋がらず、私は意を決して、アポイントなしのまま一日ヴィザでアレクサンダー・プラッツの検問所を通って東に入りました。住所を頼りにポクポクと歩き出したものの、街という雰囲気はなく、周りは焼け跡、ペンペン草、瓦礫です。目指す番地に近付いても、お役所らしい建物には出くわさず、なんども行きつ戻りつしました。このあたりを過ぎてしまうと番地は大分先になってしまうので、すでに何度も脇を通った今にも倒れそうな廃屋のような建物を見上げ、階段があったので勇気を出して昇ってみました。と、次の階の壁にボリショイ・サーカスのポスターが! アッ、ここは芸術省なんだ! 東ドイツの現実を痛いほどに感じた瞬間でしたが、役所に辿り着いた喜びで元気になった私はお役人に面会を請い、事情を話したのです。「何ですって? 《ヨハネ受難曲》をするというから、すべて大きな都市、大きなホールを選んだのですよ。この契約書は一体何なんですか!」「分かってます。申し訳ありません。でも不可能なのです。ここに代替のプログラムがあります。どうかこのプログラムをご採択下さい。お願いです!」「仕方ない。でも今からホールは変えられません。いいですね。」
 とにもかくにも交渉は成立したのです。

 翌85年の東西ドイツ演奏旅行の計画は着々と進んで行きました。しかし、この嬉しい出来事を真っ先にお伝えしたい方々の多くはすでに亡くなられていたのでした。創立以来私たちを支えて下さった御礼の気持ちと共に、なんとか追悼の機会を持てないだろうかと思案し、11月11日(日)聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂で〈レクイエムの集い〉を開く計画を立てました。
 プログラムの形は縦書き右開きの表紙と横書き左開きの表紙を持ったもので、追悼申し上げたい故人のお名前は縦書き、解説や訳詞は横書きで印刷されています。この第1回では故尾崎喜八氏のソネット『ハインリヒ・シュッツ』の詩が縦書きの冒頭に、横書きの1ページ目には故クラウス・プリングスハイム氏が毎日デイリーニュースに寄せられた英文の批評が掲載されています。この日の曲目は、
フレスコバルディ《トッカータ》([Org]武久源造)
シュッツ《ムジカーリッシェ・エクセクヴィエン》第I部

ブルックナー《アヴェ・マリア》
クラウス・プリングスハイム《復活祭の朝の歌》
《ムジカーリッシェ・エクセクヴィエン》第II部

オルティス《レセルカーダ I, II》([Vdg]中野哲也)
シャイデマン《コラール変奏曲−−−汝の慈しみに感謝せん》([Org]武久源造)
《ムジカーリッシェ・エクセクヴィエン》第III部
というもので、プリングスハイム教授のご子息でジャーナリストのハンス・プリングスハイムさんがお見えになって、「《復活祭の朝の歌》が聴けて嬉しかった。」と喜んで下さいました。追悼者のお名前をプログラムに載せ、音楽とともに故人を偲ぶ、という集いの趣旨は思いがけない反響を呼び、寄せられたお名前は211人、5ページにわたるものでした。この集いは、以来今に至るまで毎年死者の月、11月に行われています。
 この催しの少し前、残念なことが起こりました。私はバッハ・コンソートの指揮者を辞めることになったのです。いくつかの理由がありましたが、武久さんの通奏低音が日に日に個性的になり、バッハ・コンソートのメンバーが望んでいるような演奏が私の力では難しくなったのもその一つでした。辞めるにあたって私は「いつかきっと再びもっと良い形でバッハを演奏して行けるよう、がんばりますので待っていて下さい。」と言ったのでしたが、現在、上荻の日本キリスト教団本郷教会主催の〈Soli Deo Gloria〉という夕べの音楽の集いで続けられている〈教会暦によるバッハ・カンタータシリーズ〉は、この時の辛い体験が肥料となっています。
 12月2日(日)には聖グレゴリオの家で〈クリスマスを待ちながら〉( [Fl.trv]中村忠、[Vdg]中野哲也、[Org.Cem]武久源造、[Mez.S]淡野弓子)というバロック室内楽のコンサートを開き、12月21日(金)には今も練習に使わせて頂いている五反田のクロイツ教会でシュッツ合唱団のクリスマス・コンサートを催しました。この日はすべてア・カペラで、シュッツの《宗教合唱曲集1648》からのモテットとディストラーの《クリスマスの物語》を歌っています。そしてソロも全員合唱団員が受け持っています。
 翌1985年、いよいよシュッツ生誕400年、バッハ、ヘンデル生誕300年という歴史的記念年を迎えることになりました。 (続く)