第7回目執筆のために資料の整理などを始めた5月下旬、シュッツ音楽に深い理解を寄せられ、シュッツ合唱団の存在に早くから目を留めて下さった畑中良輔先生がお亡くなりになったというニュースが! 先生が私たちの製作したCD
《音楽による葬送 Musikalische Exequien》をお聴き下さり感想をお送り下さったことを思い出し、戴いたお手紙を読み返しました。
「聴き進むに従ってこの日の疲れがどこかへ消えてしまいました。」との一節にシュッツ音楽の放つ力の本質が込められているように思います。畑中先生、40数年にも亘って私たちを見守って下さいましたこと、ただただ感謝です。
また今年の3月11日、奇しくも東日本大震災から1年目という日でしたが、テノールの鈴木仁さんが召されました。彼とは藝大時代、共に磯谷威教室に学び、1950年代の末から60年代初頭にかけ、磯谷先生の「今の時代、レジャーを楽しむか革命を起こすしかありません。」との強い言葉を全身に受けて育った仲間です。卒業後、某国立大学に決まりかけていた教職の地位には就かず、ヴェストファーレン州立教会音楽大学に留学なさり、帰国後はエリザベート音楽大学で多くの優れた音楽家を鍛え、日本の宗教音楽界に貢献されました。また、私の外国滞在中シュッツ合唱団の指揮者としてご指導戴き、これからお伝えしようとしている1985年の東西ドイツ旅行にも同行して下さり、各地で福音史家やテノールのソロとして共に歌って下さいました。そして昨年の秋のコンサートまで、ほとんど毎回私たちの演奏をお聴き下さり、目を離さずにいて下さいました。なんと大きな愛を戴いたことでしょう。有り難うございました。
さて1985年はシュッツ、バッハ、ヘンデルの記念年とあって、出版された書物、楽譜も数多く、またコンサートも目白押しという1年でした。私たちにとっては9月末から3週間に及ぶ東西ドイツへの旅がこの年の最大イヴェントであったとはいえ、国内でも〈ハインリヒ・シュッツ生誕400年記念連続演奏会〉とのタイトルのもとに7回に及ぶコンサートを企画し、次から次へと演奏しています。
- その一 2/8(金) 19:00 於:上野学園エオリアンホール
〈シュッツ、シャイン、シャイトの夕べ〉
(ドイツ初期バロック3大Sの名作)
独唱、独奏、合唱、器楽アンサンブル:淡野弓子(Sop)、中村忠(Fl.trv)、萩谷克巳(A-Trbne・Periode)、田中徹(T- Trbne・Periode)、酒井一也(B-Trbne)、中野哲也(Lut)、武久源造/松本憲子(Org.positiv)
シュッツ合唱団(淡野弓子指揮)
- その二 3/28(木) 19:00 於:東京カテドラル〈受難楽の夕べ〉
(シュッツ《マタイ受難曲》ほか)
鈴木仁(Ev.)、 宮原昭吾(Jesus)、シュッツ合唱団(淡野弓子指揮)
- その三 6/3(月) 19:00 於:大森めぐみ教会 〈オルガンと歌の夕べ〉
(シュッツ、バッハ、アラウホ、ラングレー、アラン)
淡野弓子(Sop)、武久源造(Org)
- その四 7/5(金) 19:00 於:大森めぐみ教会 〈オルガンと合唱の夕べ〉
(シュッツ、ブクステフーデ、バッハ)
武久源造(Org)、シュッツ合唱団(淡野弓子指揮)
- その五 9/6(金) 19:00 於:エオリアンホール
〈珠玉のシンフォニアとコンツェルト〉
(シュッツのカンツィオーネス・サクレ/クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ/ドイツ語マドリガーレ/シンフォニエ・サクレより)
淡野弓子(Sop)、石塚瑠美子(Sop)、鈴木仁(Ten)、小渕晶男/三溝あけみ(Vn)、小俣達男(Rec)、平尾雅子(Vdg)、武久源造(Cem)
シュッツ合唱団(淡野弓子指揮)
- その六 10/31(木) 18:30 於:東京カテドラル シュッツ
《ガイストリッヒェ・コーアムジーク》(全29曲)
淡野弓子/石塚瑠美子/大森雄治(重唱)、萩谷克巳/田中徹/村岡淳志/山元富雄(Trbne Consort)、中野哲也/北田契子/高水直美/森川麻子/齊藤和久(Vdg
Consort)、小俣達男(Rec)
シュッツ合唱団(SI:8/SII:9/A:9/TI:5/TII:5/B:7)(淡野弓子指揮)
- その七 12/22(日) 19:00 於:石橋メモリアルホール〈クリスマス・コンサート〉
(シュッツ《ダヴィデ詩編:主よ、われらの主よ》(SWV 27) バッハ《ヴィオラ・ダ・ガンバ ソナタ》(BWV 1028) シュッツ《クリスマスの物語》(SWV
435))
石塚瑠美子(Engel)、鈴木仁(Ev)、谷口正(Herodes)、 田崎瑞博/川原千真(Vn/Violetta)、守安功/小俣達男(Rec)、
萩谷克巳/田中徹(Trbne)、福田善亮/吉澤賢太郎(Trba)、武久源造(Cem)
さらに、11/3(日) 18:00 神戸ユニオン教会における当間修一氏主宰・大阪 H.シュッツ合唱団の演奏会で、淡野弓子客演指揮によるシュッツの《音楽による葬送》、11/9(土)
13:15 東京大学教養学部900番教室における第35回オルガン演奏会においてアルノ・シェーンステット(Org)、石塚瑠美子(S)、淡野弓子(A)がシュッツ、バッハを演奏、12/8(日)
15:00 国際基督教大学主催のクリスマス音楽会では武久さんのオルガン・ソロによるバッハ《パストラーレ》に加え、シュッツのモテット、H.ディストラーの《クリスマス物語》(Op.10)を歌ったという記録、この他にドイツで10
数回のコンサートをしたのです。今では想像もつかないエネルギーです。この1985年という年には、シュッツもバッハも、またヘンデルも地上に現れ、大活躍をしたとしか思えません。因みにこの年、ある大学の調査による日本でのシュッツの知名度は
10%だったそうです。
さて、初の東西ドイツ演奏旅行は1985年 9月27日(金)に東京を発ち10月17日(木)に帰国、という丸 3週間に及ぶ長旅でしたので、やむなく西独組、東独組、両独組に分かれて旅程を組んだのでした。最初は
10月6日(日)に東独に入り、16日(水)に出国という予定でしたが、われわれが東ドイツで歌うということを聞きつけられるやオルガンのアルノ・シェーンステット教授が「な、なんだって? ライプツィヒで歌うのか! おお、私の故郷! お前たち、良く聴け! 東で歌う前に西で歌うべし。」と以下のようなコンサートを一気にアレンジして下さったのです。
9月29日(日) ハム:パウルス教会(オルガニスト ロルフ・シェーンシテット)
マックス・レーガー・ターゲ最終日に
10月1日(火) ヘルフォルト:マリア教会(オルガニスト アルノ・シェーンシテット)
10月2日(水) エンガー:シュティフト教会(オルガニスト 武久源造)
10月3日(木) ハーメルン:ミュンスター聖ボニファティ教会(オルガニスト 武久源造)
10月4日(金) ペータースハーゲン:ペトリ教会(オルガニスト 武久源造)
ハムからヘルフォルトにバスで到着した時には、‘Heinrich Schütz Chor’と大きく書かれたプラカードを胸に、なんとシェーンステット先生ご自身が道端に立って待っていて下さいました。メンバーの一人びとりがそれぞれの教会の会員のお宅で暖かいもてなしを受け、各市の市長が歓迎して下さいました。エンガーではエーマン教授の高弟
Christoph Ogawa-Müllerさんと同じくヘルフォルトに学んだKumiko Ogawa-Müllerさんご夫妻に大変お世話になりました。
ヘルフォルトでは80歳になられたエーマン教授がコンサートにいらして下さいました。1963年 7月 6日、東京・新宿の厚生年金会館でただ 1度行われたエーマン指揮ヴェストフェーリッシェ・カントライの演奏会が、シュッツ合唱団・東京設立の契機となり、それから
22年後にエーマン先生に私たちのシュッツ、バッハ、ブラームスのモテットをお聴き戴くことが出来たのです。翌日全員でエーマン先生のお宅をお訪ねし、お庭で再びシュッツのモテットを歌いました。
先回(6)でも触れましたが、悩み抜き、団内分裂の危機をはらんだまま強行した柴田南雄《宇宙について》は、ドイツ人聴衆の興奮を誘い、ハムで聴いた人がエンガーにまで追いかけて来たというようなことも起ったのでした。この曲の前半では西洋音楽のおよそ
700年に亘る伝統的手法が提示され、曲の中央に置かれたパレストリーナ・スタイルのモテットが叫び声や口笛でかき消されると、そこに地底から湧き起こるように隠れキリシタンのオラッシャが歌い出され、続いて諸民族の礼拝歌がそこかしこで響き合う後半、この経過をはっきり理解出来るのは、実は西洋の聴衆だったのです。
思っても見なかった結果でした。西ドイツでの音楽会はどこも満員で、毎回もったいないような批評が各都市の新聞に掲載され、ただただ驚き、私はその様子を公衆電話から東京の柴田先生にお伝えしたことを思い出しています。
西独組、東独組、両独組は10月5日(土)西ベルリンのティーゲル空港で目出たく相見え、西独組は帰国の途へ、東独組は両独組と合流し、バスでフランクフルト・アン・デア・オーダーに向かいました。ここから先、時間に遅れたり迷子になったりすると生命の保証はありません、と念を押され、東独の旅が始まったのです。予定は次の通りでした。
10月6日(日) フランクフルト・アン・デア・オーダー:コンツェルトハッレ(C.P.E.バッハ・ハッレ)
(オルガニスト 武久源造)
10月9日(水) ホイヤースヴェルダ:博物館ホール
10月10日(木) ベルリン:シャウシュピールハウス(オルガニスト 武久源造)
10月11日(金) エルフルト:オペラハウス
10月12日(土) ドレスデン:ゼンパー・オーパー(オルガニスト 武久源造)
10月13日(日) フライベルク:フライベルク・ドーム(オルガニスト 武久源造)
10月14日(月) ハレ:コンサートホール
10月15日(火) ライプツィヒ:ゲヴァントハウス(オルガニスト 武久源造)
東ドイツ演奏旅行記は『日本DDR文化協会報』に掲載された拙稿をご笑覧戴ければ嬉しく存じます。
この年の初め、東京ではいわゆる三大 Sの作品でコンサートを開きました。ご存知の通り1585年生まれのシュッツに続き、1586年にはシャイン、1587年にはシャイトが誕生、次々と記念年を迎えるこの
2人を知っておきたいと思ったからです。ことに若死したシャインの宗教的マドリガル集《イスラエルの泉 Israelsbrünnlein》(1623)には秀麗な作品が多く、なるべく沢山の曲を紹介したいと思いました。しかしシャインの作品はシュッツよりやや繊細で演奏も易しくはなく、いまだにこの曲集に収められた全
26曲を 1度に演奏したことがありません。これからの課題です。
翌1986年には 3月20日(木) 19:00 石橋メモリアルホールにおいてバッハ《ヨハネ受難曲》(BWV 245)を演奏しました。シュッツ合唱団の大森雄治さんが福音史家、同じく阪本一郎さんがピラトという次のステップに向かっての一大挑戦でした。大森さんは声にはまだ問題が残っていましたが、言葉にはひと言のミスもなく、これは大変な努力だったと思います。イエスは斎藤俊夫さんが歌って下さいました。その後、齊藤さんは心臓の発作で急逝されたのです。その暖かい豊かな声、お人柄を忘れる人はいないでしょう。
そして迎えた復活祭、私たちは新しい合唱団、その名も『イースター・クワイヤ』という混声の市民合唱団を組織し、シュッツ合唱団とは異なる視点と目標を持って練習を始めました。これも今考えてみれば、シュッツ合唱団が自分たちの音色を大切にするあまり、独善と排他に傾きかけていた状態に対する反動だったかも知れません。1
年後にはヘンデルの《メサイヤ》を演奏しようという目標で、オーディション無しで始められた市民合唱団でした。この頃の私の頭の中では、少人数のア・カペラでモテットを歌うグループと、大人数で器楽の伴奏を伴ったオラトリオ合唱団の並立が、これからの活動には不可欠との考えがあったようです。この極く普通の合唱団には、これまでシュッツのメンバーだった人たちも加わり練習は楽しく進みました。
この年の夏 (7月18日(金) 19:00 石橋メモリアル)には、懸案の“シャイン生誕 400年記念”コンサートを開催しました。シュッツとシャイン
Johann Hermann Schein (1586-1630) は親友同士と伝えられています。ライプツィヒのトーマス・カントルだったシャインは
44歳という若さで逝き、シュッツのモテット《Das ist je gewißlich wahr それはまことのまこと》はシャインの葬儀のために作曲されました。世俗歌のほとんどが消失したシュッツと異なり、シャインには《学生の宴
Studenten-Schmauss》(1626)や《牧人の喜び Diletti pastorali》(1624)といった楽しい曲集が沢山遺されています。この日は《イスラエルの泉》からの宗教的マドリガーレに加え、彼の世俗歌を何曲も歌いました。プログラムには今は亡き山科高康さんの洒脱な訳! ああ、こんなに心のこもった良い日本語訳を遺して下さったのだ、と懐かしさとともに新たな涙が・・・
そして同じ夏、思いがけない出来事が起こりました。7月25日に宝塚に到着したポーランドの ‘スコラ・カントルム・グダニスク’という室内合唱団が、8月4日(月)から7日(木)まで東京に滞在、その間のコンサート、食事、宿泊の世話を頼めぬか、という依頼がシュッツ合唱団に舞込んできたのです。25名という人数で、お金は一銭も持っていない、という団体を受け入れてくれる施設はなく、私たちは考えた挙げ句、まず募金を集め、民宿を探しました。幸い
4人の方が数名ずつ引き受けて下さり、指揮者は上荻のムシカ・ポエティカのスタジオに泊まって戴くことになりました。コンサートは 8月6日(水) 19:00 五反田のドイツ語福音教会(クロイツ教会)においてシュッツ合唱団とのジョイント・コンサートが
110名のお客様と共に開かれました。圧倒的なヴォリュームとその声の美しさ、とりわけポーランドの現代作曲家コシェフスキーの《鐘》の麗しさには一同感激、また感激、拍手は手拍子に変わり場内は得も言われぬ解放感と一体感に包まれたのでした。67人、12
団体のご寄付によって、この事業を達成することが叶い、忘れられない思い出です。翌 7日、1人の亡命者も出すことなく、彼らは成田を飛び立って行きました。
また記録を見ますと、この時期ムシカ・ポエティカでは「合唱基礎講座」を開催、グレゴリオ聖歌からシェーンベルクに至る合唱の歴史を学び歌いながら、コンサートで歌える人材を育てようとしていました。この講座の最後の作品は柴田南雄《宇宙について》でした。
記録されたことを辿る限りシュッツ合唱団は順風満帆のように見えますが、実はドイツ旅行の後、これまで通りシュッツ及びその周辺の音楽をしっかりと学びたい、というメンバーと、柴田先生が《宇宙について》で表現された「音楽とは?」との問いかけに真正面から答えたい、という団員との間に大声で議論するほどの意見の相違が生まれていました。次に掲げるのはこの年の
10月13日(月) 19:00 東京カテドラルで開催された〈ムシカ・ポエティカ秋公演 1986〉柴田南雄《宇宙について》ほか、のプログラムにお寄せ下さった柴田先生のメッセージの全文です。
作曲について 柴田南雄
現代において作曲とは何か。
それは何よりも、音楽にかんして自己が抱懐する概念を音楽によって表現することにほかならない。つまり、自己の音楽観の音楽による表明である。
少なくともそれは、十九世紀のドイツやフランスの音楽様式や書法を巧みに模倣して、そこに多少とも現代的、または日本的な感覚を加味した曲を作ることではまったくない。そのようなものは「作曲」では無く、「西洋音楽史演習」か「西洋作曲様式実習」にすぎないことを、わたくしはこれまでに、機会あるごとに表明してきた。
とくに二十世紀も終末に近づきある今日、作曲とは既製の音楽形式に沿って、発端から音符を一個一個書き連ねて行き、一つの楽曲を仕上げる時代ではなくなった。まずなによりも、何のためにこの曲が作られねばならないのか、そのコンセプトが明確でなければならない。例えばある西洋音楽の形式や、個性的な響きのイメージを管弦楽がいかに見事に実現しても、それがいかなる意味を担ってそこに存在しているのか、それが明らかでなければ、仮にその構成や響き自体がいかに精緻で美しくとも、存在の意味はない。現代の音楽史的条件からは、もう一つ上位の段階で、その存在理由が明確であることが必要かつ不可欠である。
今日の音楽はつねに、メタ・ミュージックでなければならない。つまり、音楽とは何かを音楽によって語る音楽、今日われわれがそこに身を置いているわれわれの文化の音楽史的状況を批判的に語る音楽、それを創造することがまさに作曲という作業なのである。
この日、プログラムの前半は以下の7曲、後半が《宇宙について》という構成でした。
I. カッチャ《おお、光輝ける処女よ》作者不詳(スペイン)
II. 《ニ、イ、ヘ、ト上のプレアンブルム》イレボルク写本(1448)
III. オルガヌム《アレルヤ 我らの過越の羊》レオニーヌス(12c.-13c.)
IV. 《トッカータ ニ調》J.P.スヴェーリンク(1562-1621)
V. モテット《御使 羊飼らに語れり》A.ガブリエリ(1510_20-1586)
VI. 笛と太鼓による即興
VII. 《ディフェレンシアス(オルガンのための)》(1983) 柴田南雄(1916- )
ハインリヒ・シュッツ合唱団(淡野弓子指揮)
オルガン 武久源造、 能管 守安功、 大拍子 鈴木恭介
〜〜〜〜〜〜〜〜〜休憩〜〜〜〜〜〜〜〜〜
《宇宙について》(1979) 柴田南雄(1916- )註:柴田南雄(1916・9・29-1996・2・2)
第 1章 インドの天地創造の神話
第 2章 東アジアの天地創造の神話
第 3章 メソポタミアの天地創造の神話
第 4章 神の探求について(ニコラウス・クザーヌス) 第 5章 山田の「おらッしャ」
第 6章 諸民族の祈りの歌
第 7章 華厳経(十種の光相)[巻 60, 入法界品第 34-17, その第 5]
淡野弓子指揮 ハインリヒ・シュッツ合唱団/ムシカ・ポエティカ合唱基礎講座修了生によるア・カペラ
前半の作品は、7章より成る《宇宙について》に因み、それぞれが《宇宙について》の中の様々な音楽と密接に、又、遠く呼応し合う 7つの音楽を選んで配置したものです。
柴田先生はこのプログラムを非常に喜んで下り、またカテドラルで聴く《宇宙について》は当然のこととはいえ、異様なまでの反響を呼びました。「今までの淡野弓子はドイツの真似をしている人としか思わなかったが、この《宇宙について》で評価が逆転した。初めて彼女を理解した。」というオルガニスト楽兄の感想も忘れられません。
当日のプログラムには、シュッツ団員阪本一郎さんの‘ 《宇宙について》を演奏しようとする方々へ’と題された文が掲載されています。曰く「保守と革新の異なる意識の存在が、しばらく前からシュッツ合唱団の中に緊張をもたらしていた。」「緊張の真っ只中に《宇宙について》は登場した。」「この作品は決して緊張を和らげることはなく、混乱の象徴として機能する。」「演奏者の憂うつはドイツにおいては裏切られた。演奏者は聴衆に従う。聴衆が信じ難いほどの集中力でこの作品を吸収していくのを肌で痛いほど感じた演奏者が鈍感で消極的な演奏をすることは不可能である。そうなると演奏者は日本において示してきたこの作品への反感や指揮者の選曲への否定的態度と矛盾する結果に対して、自己の分裂を防がねばならない困った立場に置かれる。」などなど、当時のわれわれの状況を伝える貴重な証言です。
12月12日(金)19:00〈クリスマスを待ちながら〉と題し、上野学園のエオリアンホールでブクステフーデ、ハスラー、プレトリウス、ツァンギウス、シャイン、シュッツ、バッハ、テレマン、パーセルそれにイギリス民謡によるキャロル集といった総花式のプログラムを、淡野弓子指揮 シュッツ合唱団、桜井行子/守安功(Rec)、武久源造(Cem・構成)で行っています。大げさにいうと既に「脱シュッツ」の意図が見え隠れしています。
明けて1987年、通常なら〈受難楽の夕べ〉が開催されるであろう 3月6日(金)、武蔵野市民文化会館小ホールで〈ルネサンスより 20世紀に至る合唱名曲選〉とのタイトルで、ジャヌカンの《鳥の歌》に始まり、マレンツィオ、シュッツ、シューベルト、シューマン、フォーレ、ディストラーを経て、林光の《鳥のうた》に終わるプログラムを演奏しました。《鳥のうた》ではリコーダーの守安功さん、安井敬さん、ピアノの武久源造さんと共に木島始の反戦の詩を歌いました。今年
1月5日にお亡くなりになった林先生に練習を聴いて戴き、大胆に感情を表出するように、という助言を戴いたこと、そして林先生もシュッツ音楽を愛しておられることを知り、驚いたことなどが今一度に思い出されます。
なぜ受難曲を歌わずこのようなプログラムになったのか、理由は二つありました。その一はやはり団内の見直しにあったと思います。いろいろな時代のものに触れ、シュッツ一辺倒から脱却する必要があったのです。美しいハーモニーと一口に言っても、時代様式や詩の内容によって、その色合いは多彩です。自分の中に潜むさまざまな可能性を知り、曲の要求する声や音色を自由に使いこなせるようになって、初めてシュッツにふさわしい音色を捉えることが出来るのではないか、などと考えていたように思います。その二は
1年前の復活祭に発足した‘イースター・クワイヤ’が、いよいよ初コンサートを迎える機会を与えられ、その名の示す通り、イースターにコンサート、という流れになったからでした。
4月21日(火)19:00 武蔵野市民文化会館小ホールにおいて、1 年間研鑽を積んだ‘イースター・クワイヤ’は14名の古楽器奏者たちに支えられ、ヘンデル《メサイア》を演奏しました。女声ソリストは石塚瑠美子、伊庭緑(Sop)、羽鳥典子、串田委子(A)、鈴木仁(T)、斎藤俊夫(B)、器楽は、橋爪美穂/齊藤和久/三塚美秋/山田暁子/本多蓉子(Vn,Va)、中野哲也(Vdg)、
蓮池仁(Kb)、川村正明/庄司知史(Ob)、 吉田太美男/丸山研也(Trp)、近藤健一(Tmp)、曽根麻矢子(Org)、武久源造(Cem)の諸姉諸兄でした。
7月13日(月)19:00〈吹け、風よ 吹け!〉と題し、サムエル・シャイト生誕 400年記念コンサートを石橋メモリアルホールで開催。守安功/安井敬/小俣達男(Rec)、中野哲也(Vdg)、武久源造(Cem)、それにシュッツ合唱団とムシカ・ポエティカ声楽アンサンブルによってシャイト
7曲、シャイン 4曲、シュッツ 5曲が演奏されました。シャイトSamuel Scheidt (1587 - 1653)の際立った業績は鍵盤曲にあります。1624年に出版された彼の《タブラトゥラ・ノーヴァ 新譜表》全
3巻は、それまで使われていた文字譜をイタリア式の 5線譜によって表したもので、のちのブクステフーデ、バッハらのオルガン音楽に大きな影響を与えました。タイトルの〈吹け、風よ 吹け!〉はシャイトのベルギー民謡による華麗な変奏曲です。この日は武久さんがチェンバロで演奏しました。これら
3大 S の音楽が、30年戦争によって荒廃の進んだドイツ人の魂を甦らせたのだということが実感された一夜でした。
秋、ドイツからシェーンステット先生が来日され、10月29日(木) 石橋メモリアルホールにおいて〈オルガンと歌の夕べ〉を開いて下さいました。先生はライプツィヒでラミン、シュトラウベといったバッハを愛する人なら決して忘れることのない歴史的巨匠の薫陶を受け、1945年にかの聖トーマス教会のオルガニストに就任されたのです。その後、筆舌に尽くし難い困難を経て(先生ご自身は直接には語られませんでしたが、奥様は何度も東独脱出時の体験を語って下さいました。)西独に渡られ、エーマン教授とともにヘルフォルトのヴェストファーレン州立教会音楽院(現・教会音楽大学)の設立に尽力されました。
ブクステフーデ《プレルディウムとフーガ》ホ短調、シャイト《我ら皆唯一の神を信ず Wir glauben all an einen Gott》に続いて、私はバッハのソロ・カンタータ
170 番《安息を楽しみ心の喜びを求めよ Vergnügte Ruh’beliebte Seelenlust》を歌いました。古楽器アンサンブルはオルガンのアルノ・シェーンステット先生を始め、川村正明(Ob.
d’am)、小野萬里/三塚美秋(Vn)、橋爪美穂(Va)、中野哲也(Vdg)、西澤誠治(Vne)、武久源造(Cem)の各氏でした。さらにハイラー《オルガン・パルティータ》、ラングレ《ミサ》(声とオルガン)、ヘンデル《オルガン・コンチェルト》変ロ長調と続き、最後はバッハ《プレルディウムとフーガ》ロ短調というプログラムでした。
12月4日(金) 19:00 東京カテドラルにおいて、シュッツ合唱団はシュッツの《白鳥の歌 Der Schwanengesang》を歌っています。混乱していたシュッツ合唱団もやっとシュッツ音楽に向かって再度の出発を試みようとしていました。
シュッツは1671年、詩編 119編 [全11曲] および詩編 100編、さらにドイツ語マニフィカトをひとつにまとめ《白鳥の歌》と題して完成させました。シュッツ
86歳、死の前年です。一体どうやって死期を悟ったのでしょうか? 死期を悟るだけなら他の人の例もあるでしょう。しかしシュッツは、この詩編を歌にすることなく自分はこの世を去れない、とばかりに、
詩編の中でも最長の詩編 119の作曲に着手し完成に導きました。人間業とは思えません。
19世紀後半、フィリップ・シュピッタ Philipp Spitta (1841-1894)によって旧シュッツ全集(1885-1894)に収められるはずが実現せず、1983年から84年にかけてドレスデンのヴォルフラム・シュトイデ博士
Prof.Dr. Wolfram Steude (1931-2006)の手によって詩編 119の欠落部分(第II合唱の Cantusと Tenorが補填され、印刷譜として見ることが出来るようになりました。1985年にドレスデンで歌った際、実はいろいろな方からこの楽譜を戴き、演奏の機会を待っていたのでした。
詩編 119は、詩節の頭に 22のヘブライ語のアルファベトを一つずつ置き、それぞれを 8節の詩としたもので、全部で 176節という長大な詩編です。シュッツはアルファベト
2文字分 16節を1曲とし、グレゴリオ聖歌風の序唱に始まり頌栄に終わる詩編歌 11曲をすべて二重合唱で書きました。全編を貫くテーマは主の掟で、その掟に生きようとする人間とそれを嘲笑い邪魔するものとの闘いが、さまざまな手法によって展開します。第
54節の「この仮の宿にあってあなたの掟をわたしの歌とします。」は、シュッツが自分の葬儀に際し 5声部のパレストリーナ様式のモテットを作ってほしいと高弟ベルンハルトに頼んだ聖句です。実に見事にシュッツの信仰とこの世で日々生きた姿を表す言葉であると思います。
シュッツが生涯で最後の曲を書くにあたって二重合唱の手法を用いたことは、若き日にヴェネツィアにおけるシュッツを導いた複合唱形式の巨匠ジョヴァンニ・ガブリエリに対する感謝であったことは当然ですが、二重合唱は、対立概念を明確に示しつつ、その一致をも可能とする形式であることに気付かされます。《音楽による葬送》の第三部では亡き人を悼みつつ、柩が地中に降りて行くさまを見守る人々と、死んだ人の霊が浄められ、天使に付き添われて天に昇って行くさまとが二重合唱によって歌われます。この
2つの音楽は歌詞も音楽も異なり、運動方向も真反対ですが、共に鳴り響き、そのハーモニーの美しさは玄妙というほかありません。シュッツの前に立ちはだかった多くの対立要素———イタリアとドイツ、南方カトリックと北方プロテスタント、法律家シュッツと作曲家シュッツ、公教と秘教、教会における信仰と個人のそれ、神と人、この世、あの世・・これらは互いに反対方向へのエネルギーの上に成り立っています。生きるとは死へ向かう力との闘いです。シュッツは闘い抜いた人でしたが、闘いのまま終わることはありませんでした。《白鳥の歌》に収められた詩編
119→詩編100→マニフィカト、との流れに、葛藤(119)→溶解(100)→結実(マニフィカト)という彼の信仰を見ることが出来ます。イエスを腕に抱き「主よ、今こそあなたはこの僕を安らかに去らせて下さいます。」と神を賛美した老シメオンに、シュッツの姿が重なります。(続く)