ムシカ・ポエティカ

解説



フーゴー・ディストラー
<クリスマスの物語>
淡野弓子

 バッハがカントルとして37年間働いたライプツィヒでは、待降節は降誕節への準備、待望を基調とし、斎戒期という意味付けがされていました。すなわち、第一待降節から第四待降節までは結婚式や宴会が禁止されており、オルガンを除く教会音楽も行なわれなかったのです。ただ、第一待降節は、教会暦の始まる日なので特別の扱いを受け、バッハもこの日のためには、このシリーズでも演奏済みのカンタータ第61、62、36番を書いています。しかし、第二、三、四待降節のための作品は、いずれもワイマール時代にその初稿が書かれたものが遺されているのみで、ライプツィヒ時代に書き下ろしたものは見つかっていません。というわけで、今日はバッハのカンタータではなく、普段演奏する機会の少ないフーゴー・ディストラーのア・カペラ作品<クリスマスの物語>を歌うこととなりました。

 わが国でフーゴー・ディストラーの名を知る人まだ僅かですが、ドイツの教会音楽の領域では良く知られ、高い評価を受けている作曲家です。またその音楽も非常に好まれています。彼はシュッツの伝統に根ざし、彼への傾倒、私淑といった気持ちを生涯抱きつつ創作を続け、ナチス時代のベルリンで34歳の生命を終えました。

 彼の人生をもう少し詳しく辿ってみましょう。フーゴー・ディストラーは1908年6月24日、ニュルンベルクで正式の婚姻ではない工場主と洋裁師の間に生まれ、祖父母の許で育てられました。1927年彼はライプツィヒに行き、ギュンター・ラミンにオルガンを、ヘルマン・グラープナーに作曲を学びました。この頃、バロック、前バロックのオルガンの響きを取り戻そうという「オルガン運動」が起こっており、この中心となったヘーグナーからも大きな影響を受けています。さらにカール・シュトラウベが指揮者であった聖トーマス聖歌隊の歌う16、7世紀の作品に親しみ、バッハはもちろん、特にシュッツ作品から強い刺激を受けました。彼が飛び抜けた才能を示していたことは、多くの師の推薦状などからも明らかです。1931年1月1日よりリューベクの聖ヤコビ教会のオルガニストの地位を得て仕事を始めた彼は、児童合唱団と聖歌隊を指揮し、多くの宗教作品を作っています。

 この少し前、1930年9月にはナチスの議席が12から107に上昇、1933年遂にナチスが政権を獲得します。1933年10月、ディストラーはリューベク音楽院およびベルリン・シュパンダウの教会音楽学校で教鞭を執ることとなりました。この年彼はシュッツの影響による<コラール受難曲>そして<クリスマスの物語>を発表、1934年から41年にかけて、やはりシュッツを手本とする9曲からなるモテット集<GEISTLICHE CHORMUSIK>(宗教合唱曲集)をまとめました。これらはいずれもア・カペラの合唱作品です。

 1937年彼はシュトゥットガルトに移り同地の音楽大学の合唱団を指導しつつ<MRIKE CHORLIEDERBUCH>( メーリケの詩による合唱歌曲集[ア・カペラ])を書き、1939年グラーツでその一部が初演され大成功をおさめます。しかしこの作品が知られるようになったのは第二次世界大戦後のことでした。1940年シュトゥットガルトで教授となり、秋にはベルリン国立音楽大学の作曲、オルガン、合唱指揮を教えることとなります。さらに1942年にはベルリン大聖堂合唱団の楽長に就任、このように次々と名誉ある地位に就くことを要請され着任するのですが、教会音楽は当時政府の是認するものではなく、ディストラーは極めて困難な立場に追い込まれ、当局との戦いと徴兵の恐怖に疲れる日々が続きます。ついに彼の精神は限界に達し1942年11月1日ガス自殺を遂げたのでした。

★★★

 ディストラーの作風は古い形式に回帰し、そこに横たわる音と言葉の関係(特にシュッツの用いた技法)を重視しつつも、各声部を異なったリズムと調性で進ませる手法によって、初期バロックの音楽よりさらに自由に羽ばたく斬新な世界を現出させたものといえましょう。

 <クリスマスの物語>は三部からなり、第一部は導入合唱、第二部はクリスマスの物語、第三部が終結合唱です。第二部では七曲のコラールとグレゴリオ聖歌風の朗唱・・語り手、天使、マリア、エリザベト、ヘロデ、シメオン・・によって物語が進行し、そのなかには四曲の劇中合唱・・天使たち、羊飼いたち、占星術師たち、祭司長たち・・も配されています。

 テキストは、導入合唱に旧約聖書イザヤ書より救い主誕生の預言、物語部分は新約聖書ルカ伝とマタイ伝より・・・マリアに対する天使の受胎告知、マリアの讃歌(マニフィカト)、イエス誕生の様子、羊飼いと天使、天の大軍(グローリア)、ヘロデと占星術の学者たち、シメオンの話と讃歌です。そして終結合唱にはヨハネ3;16の「神はその独り子を賜うほどにこの世を愛された」が用いられています。

 これらの聖句に対応するのがコラールの歌詞です。コラールの原曲には良く知られた<Es ist ein Ros' entsprungen>(見よ、バラは咲く、エッサイの根より)が用いられ、このメロディと歌詞が6つの編曲(1曲目と7曲目は同じ音楽)を生み出して行くのです。この讃美歌が採用されているのは恐らく第二待降節の聖書の朗読箇所であるローマ15;12に「イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける』」に依っているのでしょう。かのバッハが、どのようにコラールを用い、どのように展開したのかは、彼の40余曲のコラール・カンタータや<クリスマス・オラトリオ>から充分に伺い知ることが出来ますが、ディストラーもこの巨匠の歩んだ道を踏襲し、各コラールごとになかなか面白いアイディアを聴かせます。

 地上からの思いを伝えるコラールと、上よりのメッセージである聖句の朗唱は対比関係にありますが、特に第3曲目のコラール「Wir bitten dich」(心よりお願い致します)には「我が魂は主を崇め」に始まる<マリアの讃歌>(マニフィカト・ルカ1;47-50) が重ねられ、同時に歌われるます。ここで神の意志と人間の世界は交わることとなるのです。第4曲目では定旋律がテノールに置かれた上三声の合唱と、「Eiーa」(ねんねんよう)とのみ歌うバス二声による子守歌なのですが、ところどころで純粋な協和音が響き、幼子の眠りが深くなったり浅くなったりするのが聴こえてくるという、不思議な雰囲気を伝えます。第5曲では天使たちの祝福が二重合唱で歌われ、第6曲では定旋律がバスに置かれています。

 バッハやヘンデルのカンタータ、オラトリオ、受難曲では多くの器楽が加わり、通奏低音とともにソロや合唱が歌います。この器楽の協奏というスタイルはシュッツの時代に初めてイタリアから入ってきたもので、当時のドイツの若い作曲家たちは我勝ちにこの流行のスタイルに飛びつきました。器楽の助けによって一見華やかな作品に仕立て上げるという風潮に対しシュッツは、まずはア・カペラでしっかりしたポリフォニーの作品を書くべし、との苦言を呈しています。

 バロック時代から古典派、ロマン派を経た20世紀初頭に生を受けたディストラーがア・カペラで書かれたシュッツの<マタイ受難曲>に大きなショックを受け、自分もこのような作品を書きたい、との思いから1933年<コラール受難曲・作品7><クリスマスの物語・作品10>立て続けに発表したことはすでに述べましたが、ディストラーの示した態度を理解しその成果を世に伝えるのは他ならぬわたくしたちではないでしょうか。

 来週末、わたくしどもはドイツへ向かい、ドレスデンとライプツィヒにおいてこのこの<クリスマスの物語>を演奏の予定でございます。さらにハイルブロンではバッハの<クリスマス・オラトリオ>を伝統あるハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団と共に歌います。このため毎年12月23日に開催されるクリスマス・コンサートを来年の1月6日(土)午後6時、7日(日)午後5時に延期させて頂くこととなりました。お詫びとともに謹んでご案内申し上げます。

 <Soli Deo Gloria>に集って下さる皆様、とくに今夕の<クリスマス物語>をお聴き下さる皆様に心からの感謝を捧げ、善きクリスマスをお祈り致します。

[2006・12・9 たんの・ゆみこ クリスマスを前に]