ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(3)

会員 淡野弓子 

 1976年4月7日(水)午後7時より「受難楽の夕べ」が東京カテドラル聖マリア大聖堂で開催されました。プログラムは以下の通りです。
I.  H.シュッツ 《イエス・キリスト、十字架上の七つの言葉》(SWV 478)
II. H.シュッツ 《ヨハネ受難曲》(SWV 481)
 《七言》のソリストはイエス:下野昇(T)、福音史家:石塚瑠美子(S)、篠崎義昭(A)、鈴木仁(T)、藤原俊輔(B)の各氏、器楽は前年9月にお披露目をしたシュッツ合奏団の弦楽奏者たち、ヴァイオリン5名、ヴィオラ3名、チェロ2名にチェンバロが加わり計11名のアンサンブルでした。そしてプログラムには 使用チェンバロ:小渕晶男製作1976年 と記されているのです。当時小渕さんはシュッツ合奏団のヴァイオリン/ヴィオラ奏者としてシュッツ合唱団とは常時アンサンブルを共にしていた仲間の一人でしたが、ご専門は音響学でパイオニア(株)のエンジニアとしても優秀な実績を重ねておられました。そこでこのチェンバロが、小渕さんにとってどのような位置を占める楽器であったのかについてお尋ねしますと、早速お返事を下さいました。以下そのお話をもとに当時の様子を振り返ってみたいと思います。
 日本で1970年代にチェンバロと言えば、いわゆるモダン・チェンバロの時代で、ヒストリカルなチェンバロというものが存在するということすらあまり知られていないそうです。またバブル以前の急成長の時代で、設計、材料、製作技術、演奏技術など、何一つとっても昔より今のほうが進んでいると疑わなかった時代なので、歴史を遡るという発想には至らなかったようです。
 ヨーロッパにおいてモダン・チェンバロを作っていた人達が、ヒストリカルなチェンバロの存在を知らないとは考えられないのですが、モダン・ピアノの発想で作られたチェンバロが使われていました。カール・リヒターの東京文化会館での演奏会では、2000人の聴衆を前にアンプ・スピーカ内臓のノイペルト製の楽器が使われたとのことです。
 小渕さんがチェンバロを作るために都内の音大に楽器を見て回られた時も、目にされたものは Ammer, Neupert, Witmeyerなど、すべてこのようなモダン・チェンバロだったとのこと、それゆえこの演奏会(1976/4/7)で使われたチェンバロも、このようなモダン・チェンバロをまねようとして作られたものとのことです。ヒストリカルなものから学ぶという姿勢などまったく無く、ハイテク素材に類する材料をも駆使して作られたとのこと。
 しかし小渕さんは1975年にヨーロッパの博物館や製作家をたずね、それまでやってきたことがまったく本筋と違うことを認識されたそうですが、すでに九割がた出来上がっていた楽器なので、それをそのまま完成させてしまったのがこの演奏会で使われた楽器だったとのことです。同時に作りかけていたもう一台は完成させずに粗大ごみにして捨ててしまわれたそうです。「1969年に作った楽器を、ブレーメンのオルガニスト、ハラルド・フォーゲルHarald Vogel(1941- )氏来日時の講演会で、チャペル・コンサート・オーケストラと共に演奏した際に使用したことも、今にして思えば冷や汗ものです。」と仰っておいでですが、私たちにしてみれば、「ピアノではない」というだけで、それは新鮮な気持ちが漲ったのを良く覚えています。
 この小渕さんのチェンバロ(奏者:松本憲子)と共に4月7日のコンサートで歌ったシュッツ合唱団メンバーはソプラノ18名、アルト9名、テノール9名、バス7名の計43名でした。34年後の現在、このうち12名がパリパリの現役です。当時は早稲田大学の室内合唱団の卒業生がシュッツ合唱団に入って来るという流れが出来ていましたが、途中で「室内」のOB合唱団が誕生し、シュッツへの入団希望者はパタリと途絶えてしまいました。
 合奏団は先に述べましたように計11名ですが、器楽は作品によって編成が異なりますので、メンバー数の把握などひとまとめにした判断はしづらいものがあります。この頃は合奏団も週一度は練習をしていたと思いますが、曲毎にいわゆる「降り番」のメンバーが生じるので、組織と運営についてはずっと試行錯誤が続いていたように思います。
 この年の11月、東京文化会館小ホールで行われたヴィヴァルディ合奏団第30回記念公演に客演させて戴きました。曲はヴィヴァルディの《グローリア》で、指揮は勿論早川正昭氏でした。シュッツ合唱団はまだほんのヨチヨチ歩きで、他の楽団との共演で歌えるのかどうか非常に心配でしたが、この頃は真っ直ぐな声で歌う合唱団が少なかったので、このような仕儀となったのかと思います。いずれにしろ大きな、非常に貴重な体験でした。続いて12月4日、日本聖公会聖パウロ教会の創立100年を記念し、「ハインリッヒ シュッツの夕べ」というクリスマス音楽会が開催されました。このような大切なコンサートにお招き戴き、一夕のプログラムをシュッツ音楽のみで組むようにとのご意向。
次のようなプログラムを用意致しました。
I.《ダヴィデの詩篇曲集 1619》より
 詩篇第2篇〈なにゆえもろもろの国人は騒ぎたち〉(SWV 23)
II.《ガイストリッヒェ・コアムジーク 1648》より9曲のモテット
 A〈王権はユダを離れず〉(SWV 369)/
  〈彼はその衣をぶどう酒で洗い〉(SWV 370)/
  〈それ程に神はこの世を愛された〉(SWV 380) (無伴奏)
 B〈御使いが羊飼いに語った〉(SWV 395)/
  〈いちじくの木を見よ〉(SWV 394)/
  〈それは確かなまこと〉(SWV 388) (合唱と器楽)
 C〈おお愛する主なる神よ〉(SWV 381)/
  〈だれひとり自分自身で生きるものはいない〉(SWV 374)/
  〈言葉は肉体となり〉(SWV 385)(無伴奏)
III.《マグニフィカト》(遺作 1671)〈わが魂は主を崇め〉(SWV 494) (合唱と器楽)

 演奏 ハインリッヒ・シュッツ合唱団/ハインリッヒ・シュッツ合奏団
 指揮 淡野弓子
 習作《イタリア風マドリガーレ》の次に発表された、シュッツの事実上の第一作である《ダヴィデの詩篇曲集》(1619)は、シュッツがヴェネツィアで巨匠ジョヴァンニ・ガブリエリから直々に教えを受けた複合唱の手法による全26曲の作品集です。シュッツはこの詩篇曲集において、G.ガブリエリから学んだラテン語の文法と修辞法に基く作曲技法を土台に、ラテン語をドイツ語に置き換えるという試みに挑み、見事に成功させました。この作曲の前にマルティン・ルター訳のドイツ語訳聖書が完成していたということも、なんという幸いであったことでしょう。この作品集から感じ取れるドイツ語の躍動感と次々に繰り出される聖句の輝きは、ルターの存在なくしては考えられません。ともあれシュッツの業績の中でも特筆に値する出来事でした。最後に歌った《マグニフィカト》もドイツ語のものです。シュッツは亡くなる一年前に恩師ガブリエリへの敬愛と感謝のうちに《詩編119編》を二重合唱で作曲し、そのあとに《詩編第100篇》とこの《マグニフィカト》を加えて『白鳥の歌』としました。
 当日のプログラムは、シュッツの第1作と最後の作品を最初と最後に据え、中にシュッツの自選のモテット集《ガイストリッヒェ・コアムジーク 宗教合唱曲集》からのクリスマスのモテット9曲を挟み込んだものでした。《ガイストリッヒェ・コアムジーク》(1648)はこれからも何度も登場すると思いますので、ここでは説明を省きます。

 年が明け、1977年3月23日(水)午後7時 東京カテドラル聖マリア大聖堂において「受難楽の夕べ」が開催されました。曲目はJ.S.バッハ《ヨハネ受難曲》(BWV 245)です。当初はこの曲を1975年に発足したシュッツ合奏団とともに1976年の受難節に演奏したいと思って練習していたのでしたが、日が近付くにつれ、とても公演出来る状態ではないことがはっきりし、1年延ばしになっていたのでした。ということは、合奏団は1年数ヶ月を《ヨハネ》とともに過ごしたわけです。
 当時私はシュッツ音楽の素晴らしさに身も心も奪われていたため、バッハの受難曲に接した時にいいようのない違和感を覚えていました。シュッツの受難曲(マタイ、ルカ、ヨハネ)はご存知のようにア・カペラで、テキストは導入と終結を除いて全て聖書の受難記事のみで書かれています。福音史家、イエスなどの言葉は単旋律で、譜面にはリズムすら記されてはおらず、ただ黒い点で音高のみが示されているのです。しかしよく見れば、その驚くほどの自然な流れの中に、各登場人物そのものの姿と彼らの伝えたかったことが実に明瞭に現されていました。群衆合唱も短く簡潔で、ほとんど数秒のうちに場面が目の前に浮かんできました。
 シュッツのア・カペラの受難曲は、シュッツがわざわざ非常に古い伝統に沿った書き方をしたために、音楽史の流れとしてはシュッツ→バッハの100年間よりはやや長い時が流れ、バッハの《ヨハネ受難曲》の出現に至ったと思われますが、それにしても「受難曲」としての変貌ぶりには驚くべきものがあります。
 バッハの受難曲においても、福音史家の叙述やイエスほか登場人物たちの科白はすべて聖書そのままが用いられていますが、一場面が終ると信ずる者たちやマグダラのマリア、ペテロといった人々が、その場面を大掛かりなアリアで描写し、想いを歌に託します。音楽としてはどのアリアも飛び切りの時間であるとはいえ、話の筋から行くと物語の進行よりは、一時停止して景色や情感を楽しむ、という方向に傾いており、演奏する側も聴く側も、明らかに「イエスの受難」よりは「音楽の素晴らしさ」に心を奪われて行くのが感じられるのです。この感想はあくまでも、シュッツの「受難曲」との比較において感じることであって、バッハの「受難曲」を批判するものではありませんが、当初感じた私自身の当惑の気持ちを思い出すままに記しておきます。(とはいえ、個人的なことですが、私が受洗するきっかけとなったのは、このバッハの《ヨハネ》でした。1959年ごろだったと思いますが、故濱田徳昭氏の指揮のもとに行われた日本オラトリオ連盟の《ヨハネ受難曲》公演に合唱メンバーとして参加させて戴き、ここで歌った一言ひとことが「これは本当の出来事だったのだ」という確信に変ったのです。その後目黒の行人坂教会で信仰を告白し、1960年4月17日のイースターの日、木村知己牧師より洗礼を授けて戴きました。このころ私は未だシュッツの受難曲を知りませんでした。)
 こんなわけで《ヨハネ》は、演奏の難しさばかりでなく私自身の逡巡の気持ちもあり、1年数ヶ月に及ぶ練習となってしまったのだと思いますが、そこには思わぬ副産物もありました。
 丁度1976年から77年という年は、4歳になった長男太郎が毎週のオーケストラ練習をかかさず聴いていました。ポケット・スコアを渡しておいたのですが、最初は天地をさかさまに眺めていた彼も、ある日ふと正しく譜面を開き、第1曲の通奏低音がGの連続であることからG音のピッチと譜面が一致した模様。通奏低音の動きを聴き逃すまいと両目両耳全開でファゴットの蘆野豊さんの脇にピタリと張り付いていました。以後回を重ねる毎に総譜の仕組みに気付いていったらしく、ある日はオーボエの宮本忠昌さんと大木務さんの間にもぐり込み、また次の回にはヴィオラの小渕さんの音のみを聴くといった風に、独自のやり方でバッハの音楽に食い下がり、楽譜を見詰め、練習箇所を追うようになりました。一年の後、小さな彼の身体には《ヨハネ》の各楽器、各声部の全ての音符が刻み込まれ、特に通奏低音のパートは以後の彼の音楽修業の日用の糧となったようです。小さな子供の存在をうるさがらずに、バッハの音楽の中に包み込んで下さったメンバーの皆様には未だになんと感謝してよいか分かりません。
 いよいよ本番の日が来ました。客演者として、福音史家:鈴木仁(T)、イエス:川村英司(Br)、アリア:嶺貞子(S)、菊池洋子(A)、下野昇(T)、ペテロ/ピラト/アリア:池田直樹(B)、イングリッシュ・ホルン/オーボエ・ダモーレ:永峯常道、ポジティーフ・オルガン:河野和雄の諸氏が最大の芸術家的良心と共に、誠意と愛情に溢れた演奏をして下さいました。なかでもこの日ソプラノ・ソロを歌って下さった嶺貞子先生に、のちのち太郎が藝大で指導していただくことになろうとは!
 このライヴ録音は、LP3枚に収められ、ALM Record AL16,17,18としてコジマ録音よりリリースされました。訳詞は杉山好先生の文語訳です。杉山先生は学生紛争の後、駒場の東大教養学部で“J.S.バッハゼミ”を開講しておられました。それは学外の者にも解放されており、私も聴講を許され、この《ヨハネ受難曲》の講義をじっくりと伺いました。ここで学んだ修辞学的音型や象徴表現についての教えは実にアッと驚くことの連続で、それ以後の私自身のバッハ解釈の源泉になったといっても過言ではありません。杉山先生は私たちを学問的に導いて下さったばかりでなく、バッハの信仰に深く踏み込んだ解釈によって聖書と音楽の結びつきを熱く語って下さいました。
 さてこの東大に「パイプ・オルガン」が入る、というこれも当時としては「エエエッ」というような出来事が起こるのです。おぼろげな記憶を辿ると、そのオルガンの本体はカトリック吉祥寺教会にあったのですが、火災に遭い,水浸しとなったのでした。これを修理して東大に、という教授会の熱意により、解体されたヴァルカーのオルガンが教養学部九○〇番教室に運び込まれ、望月広幸氏が再建に着手。しかし損傷激しく、計画が変更され、ドイツのシューケ社からパイプ他を取り寄せてほとんど新しいオルガンが建造されたとのことです。費用は森ビル株式会社初代社長の森泰吉郎氏よりの寄付に依り、発案から足掛け4年、ここに日本で初めて国立の総合大学にオルガンが設置されたのです。
 1977年5月7日、竣工記念演奏会が催されました。以下はそのプログラムです。
I.   J.S. バッハ《トッカータとフーガ ニ短調》(BWV 565)
II.  H. シュッツ《ガイストリッヒェ・コアムジーク》(1648)より モテット
 〈われはまことのぶどうの樹〉(SWV 389)/
 〈涙とともに種まく者は〉(SWV 378)/
 〈われ心より汝を愛しまつる〉(SWV 387) (器楽付)
III. J.S. バッハ《前奏曲とフーガ ハ短調》(BWV 545)
IV.  H. シュッツ: ドイツ語による《マグニフィカト》(SWV 494)(器楽付)
V.   J.S. バッハ: 《オルガン小曲集》より
 コラール(オルガンによるコラール・プレリュードとコラール合唱)〈主イエス・キリストよ,われらを顧みたまえ〉(BWV 632+332)/
 〈天にましますわれらの父よ〉(BWV 636+416)/
 〈いと尊きイエスよ,われらここに集いて〉(BWV 731+373)/
 〈尊き御神にことを委ね〉(BWV 642+434)
VI.  J.S. バッハ《前奏曲とフーガ ホ短調》(BWV 548)

 オルガン  酒井多賀志
 合唱/合奏 ハインリッヒ・シュッツ合唱団/合奏団
 指揮    淡野弓子
 この時の模様は1977年6月13日付『教養学部報』に、“オルガンの響、天球の讃歌” 九〇〇番教室によみがえったパイプオルガン というタイトルで太田浩一教授(物理学)が極めて詳細なご感想を寄稿されています。酒井多賀志さんのオルガン・ソロは「はったりのない落ち着いた深い味わいをたたえた演奏」で、九〇〇番教室の音響的特性の問題など、バッハの音楽にとってなんの役にも立たないことを示すものであったこと、中でもバッハの《オルガン小曲集》のコラール・プレリュードのあとに、そのもととなったコラールを合唱する、という演奏形態を楽しんで戴けたようでした。またシュッツのモテットは「女声と男声が呼び交すようなポリフォニックな音楽とシンプルなホモフォニックな響きが代わる代わる何度も潮のように室をみたし参加者を感動させた」と、シュッツ音楽の特質がはっきりと伝わるご批評を戴き、恐らく九〇〇番教室では初めて響いたであろう生のシュッツやバッハが、どんな条件のもとでも、力強くその本来の力と姿を現してくれたことを喜ばずにはいられませんでした。
 コンサートのあと教室の周囲で野外パーティが催されました。どの人の顔も上気していて、中でも故野村良夫先生が天を仰いで詠嘆された言葉「ああ、今日は‘カイロス'です!」を忘れることはないでしょう。先生は感動された時に必ず右手を頭の上でくるりと回されたのですが、その特徴のある長く細い指と、よくしなう手首も今だに目に焼き付いています。
 音楽学者であられた野村先生は、信仰者としても宗教音楽の本質について首尾一貫したお考えをお持ちでした。シュッツ合唱団のコンサートに良くいらして下さり、プログラムにご寄稿戴いたこともあります。先生はあるコンサートのプログラムに“合唱音楽と信仰”と題され私たちの演奏について次のようなご感想を記されました。「信仰的感動といえば同じ3月23日に、東京カテドラル聖マリア大聖堂でのバッハの《ヨハネ受難曲》も、かなり決定的なものであった。淡野弓子女史の独特の指揮によるハインリヒ・シュッツ合唱団と合奏団による演奏はいつも熱気にあふれたものがあるのだが、この夜は大聖堂をいっぱいにした聴衆とともに、大げさに云えば20世紀の奇跡を味わうことができたのである。最後のコラールの結び「われは汝を永遠に賛えまつらん」の「永遠に」(エーヴィクリヒ)を歌う合唱団員たちのエクスターティスに近い表情に、会衆の誰もが心から同調したに違いない。」先生は最後に、共同体的信仰の一致を音楽する新しい時代が近づいているのでは・・・と述べられ「諸宗派は存続しながらも、諸宗教を超えての一致が歌われるのではなかろうか。」と締めくくっておられます。
 野村先生の思い出は尽きません。先生は西武新宿線武蔵関駅の階段を常に二段ずつ駆け上っておられましたが、先生ご自身の日常も、この世と彼岸の二重構造と言った感じで、常にその両方を猛スピードで行き来されていたような印象でした。先生がいまでもニコニコと私たちを見守っていて下さるように感じるのは、私だけではないと思います。
 さて、私たちの歩みも順調と喜んでいた矢先、またもや夫に今度はワシントンD.C.に転勤せよとの命令が飛び込み、私も決断を迫られました。東京に子供と残ってシュッツ合唱団を続けるか、または家族全員でワシントンに行くかです。6歳と5歳の2人の子供の家庭環境を考えると家族全員でワシントンに、という流れは自然なものに思え、その旨を恐る恐るシュッツ合唱団に伝えますと、案の定、かなりの失望を与えてしまったようです。留守中の指揮を鈴木仁氏にお願いし、私も年に一度は帰国しコンサートを開く、ということで、やっと折り合いがつきました。覚悟していたとはいえ周囲の顰蹙も半端なものではなく、自分自身にとっても苦しい決断でしたから、この数年の不在がのちのちプラスに働くよう、ワシントンでなんらかの成長を遂げたいものだと強く思いました。(続く)