ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(4)

会員 淡野弓子 

 ワシントンD.C.滞在は1977年から80年にかけてでした。この間、私は東京で3回のコンサートを開くことが出来ました。今回はそのコンサートの様子、ワシントンで起こったこと、また途中で訪れたドイツでの話を中心に綴ってみたいと思います。
 1978年にはシュッツ合唱団が創立10周年を迎える予定です。第1回のコンサートを行った9月に記念演奏会をと思い、私がその少し前から東京に滞在出来るよう準備が始まりました。 二人の子供たちは生まれるとすぐにベビーシッターのお世話になっていたのですが、桃子3歳、太郎2歳の1974年には、ブラジル時代に住み込みで子供を育ててくれた姉妹、リアとマリーナのうちマリーナが東京に来てくれることとなり、2年と半年、子供たちと一緒に暮らしてくれました。その後は岩手県叶水にあるキリスト教独立学園出身の河本(現・田嶋)緑さんがちょうど東京で保育専門学校に通われると聞き、子供たちの世話をお願いすることになりました。緑さんは私の家に下宿して下さったので本当に助かりました。
 そしてワシントンです。1978年の夏から秋にかけては姑、淡野操の助けを得、同年11月から1979年8月までシュッツ合唱団のメンバー水田(現・万年)玲子さんがワシントンに来て下さったのでした。この方達なしには私自身シュッツ合唱団の指揮という仕事を続けることは不可能だったのです。万感の思いとともに「有難うございました」と申し上げます。
 1978年9月、二夜に亘る連続演奏会が企画され、2日(土)午後6時、東京カテドラル聖マリア大聖堂において<シュッツの夕べ>、10日(日)午後6時、石橋メモリアルホールにおいて<バッハの夕べ>が開催されました。プログラムと出演者を記しておきます。
第1夜<シュッツの夕べ>
 ハインリヒ・シュッツ《宗教合唱曲集》(1648年) 全29曲(SWV 369—SWV 397)
 独唱
  ソプラノ:飯山恵己子/辻 宥子
  アルト:菊池洋子
  テノール:鈴木 仁/篠崎義昭
  バス: 池田直樹
 通奏低音
  ポジティーフ・オルガン:河野和雄
  ファゴット:馬場自由郎
  チェロ:御園生(現・桜井)京子
  コントラバス:片柳 茂)
 ハインリヒ・シュッツ合唱団・合奏団
 指揮: 淡野弓子

第2夜<バッハの夕べ>
 J.S.バッハ
 I. 序曲(管弦楽組曲)第1番 ハ長調(BWV 1066)
  オーボエ独奏:宮本忠昌/大木 務
  ファゴット独奏:馬場自由郎
  通奏低音
   チェロ:御園生京子
   コントラバス:片柳 茂
   チェンバロ:松本憲子
 II. ピアノコンチェルト ニ短調(BWV 1052)
  ピアノ独奏:安芸彊子
 III. ミサ ト短調(BWV 235)
  テノール独唱:鈴木 仁
  バス独唱: 池田直樹
  通奏低音
   オルガン:持田昌子
   ファゴット:馬場自由郎
   チェロ:御園生京子
   コントラバス:片柳 茂)
  ハインリヒ・シュッツ合唱団・合奏団
  指揮: 淡野弓子

 シュッツの解説は故・服部幸三先生に、バッハの解説は杉山好先生にお願い致しました。服部先生は、『ハインリッヒ・シュッツ 1648年<ガイストリッヒェ・コーアムジーク>—宗教合唱曲集—』、杉山先生は『プロテスタント音楽家バッハ』とのタイトルで、いずれも綿密にして深く、学問的でありながら両先生のご人格の背後にある暖かさに溢れた解説を戴くことが出来ました。以下は私がシュッツについて記した「演奏メモ」からの抜粋です。
 ・<1648年 宗教合唱曲集>には29曲のモテットが収められているが、全29曲を通して演奏するという意図をシュッツは持っていなかった。
 ・一晩のコンサートですべてを聴いて戴くにはどのような工夫が必要であろうか。どのような編成と順序で演奏すべきか。考えた末、全体を内容に添って、1)イエス降誕の予言、2)降誕のよろこび、3)新年顕現節を祝い寿ぐ、4)神への信頼と神の裁き、5)イエスの受難と復活、6)死と来世の確信 という6グループに分け、声と器楽の編成を考え、歌いやすく、聴きやすいように配列するとの結論に。
 ・録音は 1) R.マウエルスベルガー指揮 クロイツ聖歌隊
      2) W.エーマン指揮 ヴェストフェーリッシェ・カントライ
があり、1) は器楽付きの作品を除いて他はすべてア・カペラ、2) は声のみで書かれた曲でも、ある声部は声、ある声部は楽器という編成にしたり、全声部を器楽のみで演奏したりしている。
 ・この日の編成は、どちらかといえば、2) のエーマン方式に近いが、学問的というよりは経験と現場の状況から生まれた選択である。
 ・Nr.15とNr.22は各パート一人のソロアンサンブルと通奏低音によって演奏される。
 この全29曲はその後も数回演奏していますが、そのたびに順序やコンセプトが違いますので、この初回に分けた各グループの曲番と曲名を記録しておきます。
I.
 Nr.1 王笏はユダから
 Nr.2 彼はその衣をブドウ酒で洗い
 Nr.26 いちじくの木を見よ
 Nr.14 わが民を慰めよ
 Nr.15 わたしは呼ばわるものの声
 Nr.13 おお愛する主なる神よ

II.
 Nr.3 神の救いのみ恵みが現れた
 Nr.12 神はそのひとり子を給うほどにこの世を愛された
 Nr.16 ひとりのみどり子が生まれた
 Nr.17 言葉は肉体となり
 Nr.27 御使いは羊飼に言った

III.
 Nr.4 われらに平和を
 Nr.5 われらの君とすべての長に
 Nr.6 だれひとり自分のために生きる者はない
 Nr.18 もろもろの天は神の栄光をあらわし
 Nr.19 心からあなたを愛します、おお主よ

IV.
 Nr.28 山の上で大きな悲しみの声が聞こえた
 Nr.7 多くの人が東から西から来て
 Nr.8 まず雑草を集めよ
 Nr.21 わたしはまことのブドウの木
 Nr.29 おまえ、悪い僕よ

V.
 Nr.9 主よ、わたしはあなたに寄り頼みます
 Nr.24 神のみ旨は
 Nr.25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる

VI.
 Nr.10 涙とともに種まく者は
 Nr.11 いま、わたしはイエス・キリストの御許にゆく
 Nr.22 わたしたちの国籍は天にある
 Nr.23 主にあって死ぬ者はさいわいである
 Nr.20 それは確かなまこと
 この演奏会を振り返ってみますと、その時はあらゆる意味でギリギリの選択であり決断であったとはいえ、当時「そうだ」と思っていたことと、現在分かっていることとの差に愕然とします。例えば、シュッツの時代にコーア・トーン(a′≒466)が用いられていたことを知らず、ベーレンライターの新シュッツ全集第5巻《Geistliche Chormusik》(1648)(1935年 Wilhelm Kamlah 校訂 註: この版は2003年Werner Breigによって改訂され、原調版となった)において、全音高く表記されている譜面をa′=440で歌っていたのです。ア・カペラで歌う際に、歌い手の声に合わせて調性を変動させることは許されてはいますが、本来は原譜を用いてコーア・トーンで歌うという選択がふさわしいのではないでしょうか。しかしポジティーフ・オルガンやチェンバロの鍵盤を、カンマー・トーンa′≒415、通常用いられるa′=440、そしてコーア・トーン:a′≒466の三通りに動かせる楽器が現れるのはもっと先のことです。Philipp Spitta 校訂の、いわゆる旧全集版も知ってはいましたが、音部記号がソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスとすべて異なるので実用には適さず、用いてはいませんでした。
 文字に関しては「預言」と記すべきところを「予言」としています。神から預かった言葉を「預言」といい、いわゆる「予言」とは異なるということを知らなかったのです。
 また、この曲集に収められたモテットは“29”曲という不思議な数なのですが、当時その数字の意味するところは皆目分かりませんでした。のちに判明したのですが、これについては回を改めてご報告致します。
 とにもかくにも全29曲を一晩かけて歌い、聴いて戴くという初めての試みは無事終了し、お聴き下さった畑中良輔先生から「・・・秋を告げるこの夕べ、私に魂の充実を約束してくれた。それは疲弊の中のドイツ国民の精神を救ったこれらの“高貴なるひびき”が、三百三十年を経たこんにち、この聖堂の固い木の椅子の上にある私の心に、<不滅>の意味をも教えてくれたのである」(朝日新聞)とのご批評を戴きました。音楽もさることながら、人間として稀有な存在であるシュッツをこのような形で多くの読者に伝えて下さった畑中先生のお言葉に、私たちはどれほど励まされたことでしょう。先生は九十歳を越えられた今でも、シュッツ音楽に対する熱い思いやCDのご感想などを送って下さいます。A.アインシュタインもまた『音楽と音楽家』のシュッツの章の最後で<イエス・キリストの復活の物語>を解き、復活したキリストが弟子たちに語る言葉をわれわれ読者が追感するよう促し、「シュッツの復活もまた確実なことなのである。」(中村皓光訳・白水社)と結んでいます。<不滅>の意味を繰り返し憶わずにはいられません。
 続いて行われた<バッハの夕べ>はシュッツ合奏団の人たちの強い希望によって企画されました。芸大の同級生だった安芸彊子さんがピアノで d-Moll のコンチェルトを弾いて下さいました。安芸さんにはいまだにコンサートや次世代の子供たちのレッスンなどで大変お世話になっています。このピアノをはじめオーケストラの楽器もモダンで演奏しました。ピリオド楽器は理論としては語られてもまだ現実のものではありませんでした。ただ先回お話したチェンバロ製作家でヴァイオリニストの小渕さんは、「弓だけでもバロック仕様にしてはどうか」と言っておられました。
 私自身はバッハのモテットや教会カンタータをシュッツと同じような気持ちでやって行く自信はまるでありませんでした。バッハの声楽曲はどれも非常に難しく、声楽、器楽ともにソリストを見つけるのは容易ではありませんでしたし、礼拝の中で演奏された音楽であるバッハのカンタータは、われわれの国では何処でどのように演奏されるのがよいのか、またふさわしいのか、ということをいつも考えていたように思います。
 一晩のプログラムの中でシュッツとバッハを同時に演奏することにもいささかの抵抗がありました。同じキリストの音楽でも、シュッツとバッハでは表現の仕方がまるで違うのではないかと感じていたのです。
 当時、故・辻荘一先生もよくコンサートにいらして下さいました。辻先生はシュッツとバッハの間のブクステフーデを識ると、シュッツからのつながりとバッハへの道のりが分かるようになるのでは、と助言して下さり、ブクステフーデの《われらがイエスの肢体》の録音を聴かせて下さいました。しかしこの作品を演奏するまでにはさらに十数年の時が必要でした。
 1979年2月3日、ドレスデン・クロイツ聖歌隊の指揮者マルティン・フレーミヒ氏(Prof. Martin Flämig)が来日され、石橋メモリアルホールで公開講座が行われました。シュッツ合唱団がシュッツのモテット、芸大のバッハ・カンタータ・クラブがバッハのカンタータで受講しました。私はアメリカに居たため、この日の指揮は鈴木仁氏がとって下さり、通訳は杉山先生でした。私はあとから放送されたものの録音を聴いたのですが、ここでもシュッツとバッハの違いに驚いた次第です。
 ワシントンでの生活にも変化が出てきました。私はナショナル・シュラインというカトリック・チャーチの聖歌隊の一員として、グレゴリオ聖歌に始まるかなり伝統的な教会音楽の中に身を置いていたのですが、その教会のアーチスト・イン・レジデンスであったドイツ人オルガニスト、カウンツィンガー氏(Prof. Günther Kaunzinger)が、「ワシントン・ゼンガーブント」という合唱団で指揮者を募集している、オーディションに行ってみたら、と勧めてくれたのです。数人いた応募者の中からひょんなことで私が選ばれ、この合唱団で働くこととなりました。
 ワシントンD.C.には、この街を造り上げた現場の移民労働者たちをルーツとするさまざまな人が住んでいます。彼らはそれぞれの国ごとに共同体を持ち、世代交代で徐々に血も混ざって来る中で、故国の伝統行事や生活に根ざした共通の趣味などを大切にしています。ドイツ合唱運動の流れを汲む混声合唱団「ワシントン・ゼンガーブント」もそんなグループの一つでした。
 さまざまな面白いことに遭遇しましたが、かなりのカルチャー・ショックも受けました。ここのメンバーの人たちは、私がそれまでに想像したり、実際に会ったりしたドイツ人とはまるっきり違っていました。自分の手が造り上げたものに誇りを持ち、仕事が終ればビールを飲み、週に一度同胞に会ってお互いの家族の安否を気遣い、故郷の歌を歌うという生活者たちの声、それは私がそれまでドイツ人の声と思い込んでいたトーンの高い声ではなく、人間味溢れる野太い響きだったのです。彼らのレパートリーである「ドイツの歌」は初めて視る曲が多く、練習を始めると「そこはピアニシモ、と昔から決まっているんだよ」などと言われてしまうのでした。
 日本人女性が「ゼンガーブント」の指揮者に、というニュースは在住ドイツ人を驚かせたらしく、ある日ギゼラ・ケップ(Gisela Köpp)さんというドイツ人女性から電話がかかってきました。なんとこの方は「声と呼吸」の研究家で、私が最も知りたかったことの指導者だったのです。早速ケップ夫人のスタジオに通うこととなり、日本に帰国する時まで、レッスンを受け、今も交流が続いています。
 1979年6月、私は14年ぶりにドイツを訪れ、エーマン教授にお目に掛かりました。74歳になられたエーマン先生は、自分はシュッツ、バッハ時代の演奏形態を追跡し、その通りの方法で再現してみようと思ったが、他の演奏家の独自の解釈に期待しており、外国人の解釈には興味がある、と話して下さいました。私は日本人がドイツ音楽を演奏して行く意味を考える毎日でしたから、先生のお考えに非常に勇気づけられ、うれしく思ったのでした。
 当時は、ア・カペラあるいは通奏低音付き、または声部のいくつかを器楽にするというのが精一杯で、シュッツの二重合唱で行われるように、2群に分けて各群に器楽と声楽を配するなどという形態は夢のまた夢だったのです。
 目に見える部分での「歴史的」演奏には程遠かった私たちは、シュッツの用いた言葉に焦点を合わせて行こう、という方向に向かい、テキストの解釈に時間をかけ、言葉の意味がそのまま聴き手に伝わるにはどうしたらよいか、を考えていました。またドイツ語のテキストを日本人がどこまで歌えるのか、ということも一大テーマでした。「ドイツ語では分からない」という声も伝わって来ましたが、言葉とは単に事物を言い表したり説明したりするだけではなく、物の本質、根源を伝える力を持ち、その本質においては西洋と東洋の別はない、と思いましたので、言葉と音型がピタリと一致しているシュッツの音楽はなんとしてでも原語で歌いたい、と努力を重ねました。
 しかし、伝える者が己の根源、本質から声を出すすべを学ばねば、発音が間違っていなくても、なにか物足りない、という印象を与えます。シュッツの音楽の持つ強靭な内的エネルギーをアタックの寸前に我が身に取り込む、ということが成功するには、演奏者の内的な強さと「声」の前段階にある呼吸のプロセスが重要な課題となります。
 前述のギゼラ・ケップ夫人と出会ったのは、私が今述べた「言葉」「呼吸」「音楽」といったことで日夜堂々巡りを繰り返していた時でしたが、彼女との話、訓練、討論によって、私が考えていることは妄想ではない、という確信を得ることが出来ました。
 エーマン先生との再会ののち、ケップ夫人の勧めと紹介によって私は、古都ツェレにある呼吸法の専門研究機関“シューレ・シュラフホルスト・アンダソンSchule Schlafhorst-Anderson”を訪ね、長くここの校長を務められたシューマン先生(Gertrude Schumann)にお会いして、お話を伺うことが出来ました。
「とうとう来ましたね。待っていました。」と出迎えて下さったシューマン先生。すくっと立たれ、身体の真ん中から立ち上る穏やかな声。この方が81歳?
 先生の居間の一方の壁には一面に曼荼羅が掛けられ、反対側にはグランド・ピアノ、正面はバルコニーに通じ、見下ろせば芝生の庭と樹木、その先は森という、すでにこの世ならぬ雰囲気でした。私が初めてケップ夫人と「声」について語り合った時、お互いにどちらが発したのか分からないほど、ほとんど同じ言葉を交わし合ったことを伝えますと、先生は「真なる生命というものを考え続けていけば、それはたった一つの核に至ります。いつでもどこでもそれは一つです。」と仰ったのです。
 そのあと先生は幾つかのシューベルトの歌曲、ヘンデル、そして最後にコラールを歌って下さいました。国籍も年齢も時も消え、絶えることのない波動のみが息づいていました。シューマン先生とお話が出来たのは、これが最初で最後でした。
 ドイツ旅行のあとアメリカから2度目の一時帰国が実現し、1979年9月2日、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、レヒナーとシュッツの作品を集め「愛と死」をテーマとしたコンサートを開きました。プログラムと出演者は次のようなものでした。
ハインリヒ・シュッツ合唱団・合奏団演奏会

I. レオンハルト・レヒナー(1553頃ー1606):《ソロモンの雅歌》

II. ハインリヒ・シュッツ(1585-1672):《シンフォニエ・サクエI》(1629)より7つのコンチェルト
 Nr.7/8  《我が魂溶け入りて/エルサレムの娘よ》(SWV263/264)
  テノール:鈴木 仁
  バリトン: 西 義一
  オーボエ・ダモーレ:大木 務
  イングリッシュ・ホルン:宮本忠昌
  ヴィオラ・ダ・ガンバ:山科高康
  コントラバス:片柳 茂
  チェンバロ: 松本憲子
 Nr.16/17 《夜 われ床にありて/夜巡者ら われに遭いければ》(SWV272/273)
  ソプラノ:飯山恵己子
  アルト:菊池洋子
  ファゴット:蘆野 豊/桑原優子/鳥橋 渡
  チェロ:御園生京子
  コントラバス:片柳 茂
  ポジティーフ・オルガン:河野和雄
 Nr.9/10 《ああ なんじ美わしきかな わがともよ/花嫁よ レバノンより我とともに来たれ》(SWV265/266)
  テノール:篠崎義昭
  バリトン:西 義一
  ヴァイオリン:鈴木光比古/双津多枝子
  ヴィオラ・ダ・ガンバ: 山科高康
  コントラバス:片柳 茂
  チェンバロ: 松本憲子
 Nr.13 《我が子 アプサロンよ》(SWV269)
  バス:池田直樹
  トロンボーン:和田美亀雄/金井秀雄/田中照門/舛田静夫
  コントラバス:片柳 茂
  ポジティーフ・オルガン:河野和雄

III. ハインリヒ・シュッツ《ムジカリッシェ・エクセクヴィエン》Op.7 (1636)(SWV 279-281)
 ソプラノI:飯山恵己子
 ソプラノII:菊池洋子
 カウンターテノール:篠崎義昭
 テノールI:鈴子 仁
 テノールII:西 義一
 バス:池田直樹
 通奏低音
  チェロ:御園生京子
  ヴィオラ・ダ・ガンバ:山科高康
  コントラバス:片柳 茂
  ポジティーフ・オルガン:河野和雄)
 ハインリヒ・シュッツ合唱団・合奏団
 指揮: 淡野弓子
 楽器はほとんどがモダンでしたが、もともとギターの名手であった山科高康さんが、非常な熱意とともに、ヴィオラ・ダ・ガンバに取り組まれ、専門のドイツ語とシュッツ合唱団バスという経験が十二分に活かされたコンティヌオを弾いて下さいました。山科さんは残念なことに昨年亡くなられましたが、今は「これぞわが国」とばかりに天を駆け巡っておいででしょう。
 また辻荘一先生が開演に先立ってレヒナーとシュッツの音楽についてお話下さり、ケップ夫人が『呼吸と声』というタイトルで寄稿して下さいました。そこには、生きることを欲する人間の待ち望んでいた根源の音について、またその運動の有様について、その運動と人間の呼吸について、歌い手が呼吸から音を型造る際の振動が収束する様子、などが懇切に述べられ、渦巻き模様の図版からは、振動が核となる様子などが見て取れます。非常に興味深いのは、‘核が開放されると音は透明になり、それぞれの「私」が「歌う」は超克され、たんに「それ」が「歌う」となる。’との一節です。この「それ」は「Es」であり、ドイツ語で言うと、„Ich singe“ ではなく „Es singt“ ということです。私がこの言葉に最初に出会ったのはオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herigel)の『弓と禅』の中ででした。ここにはドイツ人哲学者ヘリゲルが日本で弓道を学ぶ道程が記されており、動詞は「歌う」ではなく「射る」なのですが „Ich schieße“ ではなく „Es schießt“ であると弓の導師が語っているのです。そしてこの書物は、かの呼吸法の学校、シューレ・シュラフホルスト・アンダソンでは全学生の必読書なのだとか。さらに驚いたのは、この十数年後ギーベル先生(Agnes Giebel)が開口一番きっぱりと „Es singt“ と言われたことでした。
 思いがけない出会いによって充実の時となったワシントン生活に別れを告げ、目出たく家族共々帰国したのは1980年3月でした。改めてシュッツ合唱団・合奏団と真っ直ぐに向き合い、新しい計画に心踊らせつつも、浮かぬ顔で学校から帰って来る「帰国子女」の子供たちの前途も心配という落ち着かぬ日々でした。しかしこの年、シュッツ合奏団メンバーの強い希望と熱意によって、《バッハ・コンソート》という新しいグループが誕生することになったのです。(続く)