ムシカ・ポエティカ

ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(9)

会員 淡野弓子 

 アグネス・ギーベルの内弟子として3年間をギーベル家で過ごしたソプラノの徳永ふさ子さんから、来日されるギーベル先生とのコンサート開催について相談を受け、1990年9月27日(木)上野学園大学のエオリアン・ホールで徳永さんとの2重唱や合唱とのアンサンブルを含む〈AGNES GIEBEL★LIEDERABENDアグネス・ギーベルを迎えて〜ドイツ歌曲の夕べ〉が実現しました。プログラムと共演者は次の通りです。
シューベルト [ソロ] 春の想い/ 夕映えに/ 汝こそ我が憩い
[ソロとアンサンブル] セレナーデ「ひそやかに、そっと」
メンデルスゾーン [ソロ] 挨拶/ 溢れる愛をひとことで(2重唱)
シューマン [ソロ] 献呈/ 月の夜
[2重唱] 病める子供のための子守り歌/ 美しい花
〜休憩〜
シューマン [ソロ] 春への挨拶/ だれかが/夏の静けさ(2重唱)/ 夜鳴き鶯に寄せて(2重唱)
ブラームス [ソロとアンサンブル] 真っ白い小鳥がとまっていた/夜鳴き鶯よ、言っておくれ/月は密かに昇る
[ソロ] 郷愁/ 太陽はもう輝かない/ すぐ来てね/ 日曜日
ドヴォジャーク [2重唱] 小鳥よ飛べ/ 小さな畑
ブラームス [ソロとアンサンブル] 天に向かって嘆きたい/ 咲き残る2つの薔薇
ソロ: アグネス・ギーベル(メゾ・ソプラノ) 2重唱: 徳永ふさ子(ソプラノ)  ピアノ: 武久源造/ 小島芳子
淡野弓子指揮:ムシカ・ポエティカ声楽アンサンブル
 なんと25曲もの歌たちが顔を揃え、重唱やアンサンブルとの掛け合いも楽しめる豪華なプログラムでした。亡き小島芳子さんの健闘も忘れることが出来ません。
 ギーベル先生が「メゾ・ソプラノ」と紹介されているのには訳がありました。先生が何度も皆に話されたことですし、その後の私たちも計り知れぬ影響を与えた出来事ですので、ここに出来る限り正確に記しておきましょう。
 アグネスの語ったこと:「私はナチュラル・シンガーであった。苦労無く、いつでも声が出た。歌いたい、と思った歌詞であれば、極く自然に表情が生まれ、歌えばどこでも聴き手は喜び、常にDiva(スター)だった。私の夫は指揮者だったが、結婚後は『アグネス・ギーベルを育て完璧な歌い手にしたい』との思いから自分のキャリアを指揮からマネジメントに変え、ひたすら私の訓練に励んだ。私は彼の人形のようであったが、夫がいなければ歌えなかった。
 1980年1月1日の朝、夫は「苦しい」と言い、すぐに病院に運ばれたが間もなくこの世を去った。心臓発作であった。私はその日以来、全く声が出なくなった。生きていて何になるのだろう。闇の中でただ涙する日々であった。が、ある朝、私は音叉笛で低いCを出し、その低さでバッハの《マタイ受難曲》から「Blute nur, du liebes Herz 血を流せ、わが心」を歌った。そこで閃いたのは ‘お前はこの2オクターヴ上でも歌えるはず’ との考えだった。2オクターヴ上げてみた。なんと! 声は答えた。 友人のハンス・ペーター・クレマンは物理を修め、レコード作成を仕事としていたエンジニアであるが、彼にこの話をすると「おお、アグネス! あなたはついに自分自身で原則を発見したね。部屋の中に長い紐を渡し爪弾くとあるピッチで振動する。紐の長さを半分にすると、振動数は2倍となる。これがオクターヴ上。それをまた2分すれば振動数は4倍となって2オクターヴ上昇する。どの音も最初のゆっくりした振動が元。よし、これが出来るようになるまで僕はあなたと一緒に練習しよう。」そう言ってクレマンは仕事を終えると毎日私の家に来て、低い音から2オクターヴ上昇の練習をしてくれた。私がちょっとでもおかしな声を出すと『ストップ! 軌道を外すな!』と。ハンマーや体力増強のための自転車なども使ってのトレイニングだった。半年後、高くて軽い声が出るようになり、まるで少年のように歌えた。」
 ギーベル先生は再び歌い出され、生徒の指導も再開されます。元の声と違うところは、先生の出される各々の音に深みが加わり、単なるリリック・ソプラノに陰影が宿り、なんともいえぬ味のある声になられたことでした。先生は、高音が綺麗、というだけではない歌い手として、この音色とともに「メゾ・ソプラノ」と名乗られたのだと思います。
 ハンス・ペーター・クレマンとの訓練の様子はミヒャエル・クルツ著『Auf Flügeln des Gesangs 歌の翼にのせて〜偉大なるソプラノ、アグネス・ギーベルの生涯〜』(Verlag Dohr Köln)のP.129に詳しく述べられています。そしてP.130にはバッハ生誕300年を記念して開催されたヘルムート・リリング主宰の「国際バッハ・アカデミー」にアグネス・ギーベルが講師として招かれたときの様子が記され、なんとこのアカデミーにソプラノの徳永ふさ子さんが受講生の一人として参加していたのでした。彼女はその場で「あなたのようにうたいたいのです!」とギーベル先生に直談判、その後彼女は3年もの時をアグネス・ギーベルの家で過ごし、眼の前で起こるさまざまな出来事に目を丸くしながら、音楽ばかりでなく、人生の研鑽を積むこととなります。
 P.131には早くも私自身の名前も登場し、アグネス・ギーベルは淡野弓子指揮 ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京/ シンフォニア・ムシカ・ポエティカとともに大きなオラトリオのソリストして数多くの作品、例えばメンデルスゾーン《パウロ》(1993・9・10)、シュッツ《音楽による葬送》(1993・10・5)、ヘンデル《ベルシャザール》(1996・11・10)、バッハ《マタイ受難曲》(1997・3・18)、ブラームス《ドイツ(語)レクイエム》(2000・10・10)、ヘンデル《メサイア》(2001・11・2)などを歌った、と記録されています。
 まことに、われらが徳永ふさ子さんの発した勇気ある言葉「あなたのようにうたいたいのです!」はご覧のような大きな渦となってシュッツ合唱団を始め、多くの歌い手、器楽奏者、研究者、愛好家を巻き込み、計り知れぬ影響を及ぼすに至ったのです。ギーベル先生はこれから何度もこの「軌跡」の紙上で縦横の活躍をされることと思いますので、今は先を急ぎましょう。

 1990年11月29日、恒例の〈レクイエムの集い〉が石橋メモリアルホールにおいて開催されました。TOMBEAUREQUIEMによるプログラムで、前半は小野萬里さんのヴァイオリン、中野哲也さんのヴィオラ・ダ・ガンバ、武久源造さんのチェンバロによるL.クープラン、M.マレの《トンボー(Tombeau 追悼曲)》、《聖ジュヌヴィエーヴ寺院の鐘》、J.J.フローベルガーの《組曲20番》、後半はモーツアルトの《レクイエム》でした。
S:嶺貞子
A:荒道子
T:佐々木正利
B:宮原昭吾

オリジナル楽器アンサンブル
Vn:小野萬里、 渡邊慶子、 高岡真樹、 田辺玲子、 竹島祐子、 小淵晶男
Va:李善銘、 森田芳子
Vc:伊藤耕司
Kb:西澤誠治
B.Hr:坂本徹、 上村千春
Fg:堂阪清高
Trp:津堅直弘、 栃本浩規
Trb:山田裕治、 和田美亀雄、 福神浩貢
Timp:近藤健一(現・高顕)
Org:武久源造

合唱:イースター・クワイヤ

指揮:淡野弓子
 モーツアルトの《レクイエム》に登場するバセット・ホルンは、この公演の4日前、11月25日に「磐田オラトリオ研究会」演奏会で用いられ、オリジナル楽器のバセット・ホルンの音が初めて我が国に紹介されました。我々の演奏会は2度目というわけでした。この楽器はクラリネット属の低音楽器で、1790年ごろ(モーツアルトの亡くなる1年前)ウィーンで作られた楽器を管楽器奏者でその製作家でもある坂本徹さんがコピーなさったものでした。この楽器からどんな音が出るのか、全体の中でどう響くのか、が私にとっては最大の関心事でした。
 それは闇の中にボッと咲いた芙蓉の花、といった趣きで、美しくしかし渋い音色! 当時 “アントン・シュタットラー”という名手がおり、モーツアルトが多くの難曲を彼のために作曲したので、後の演奏家の手におえず、その後ベートーヴェン、メンデルスゾーンのあとR.シュトラウスにバセット・ホルンを用いた曲があるものの、徐々にこの楽器の影は薄くなってしまったとのことです。坂本徹さんは「What’s Basset-horn?」と題して、この日のプログラム冊子に丁寧な一文を寄せて下さいました。改めて坂本さんの、楽器製作、演奏、解説という万全のお働きに、心から感謝申し上げます。

 この年最後のコンサートは〈シュッツ全作品連続演奏〉の第3回でした。〜クリスマスの響き〜と題し、《Kleine geistliche Konzerte》(Op.8 1636)(Op.9 1639)より10曲のコンチェルト、《Geistliche Chormusik 》(Op.11 1648)より10曲のモテットが選ばれています。
声楽陣
シュッツ合唱団、ムシカ・ポエティカ声楽アンサンブル

器楽陣
Rec:守安功、安井敬
Vn:小野萬里
Lut:中野哲也
Vdg:福沢宏
Org.p & Cem:武久源造

指揮:淡野弓子
 シュッツは歴史の中で起こった事実を正確に受け止め、その状況を絵画のように描写する一方、大胆な和音進行によって、この世とあの世、人と神の間を自由に行き来します。度肝を抜かれるような出来事もシュッツによって「音楽」として組み直されると、すべてがはっきりと当然の事として示され、誤解の余地がありません。〜クリスマスの響き〜として歌った20曲によって知らされたことは、来る日も来る日も計り知れないエネルギーが人間に向かって何かを語り続けているという事実と、イエスの母と定められたマリアの主を信ずる心の強さでした。

 1991年の〈受難楽の夕べ〉は3月15日(金)19:00より、東京カテドラル聖マリア大聖堂において開かれ、J.S.バッハ《ヨハネ受難曲》が演奏されました。演奏者は次の通りです。
S:蒲原史子
A:荒道子
T [福音史家&アリア]:佐々木正利
B [イエス]:宮原昭吾
B [ピラト&アリア]:小原浄二

オリジナル楽器アンサンブル
Vn:小野萬里(コンサートマスター)、高岡真樹、竹島祐子、大田也寸子、戸田薫
Vd’amore & Va:藤原義章
Vd’amore & Vn:小淵晶男
Lut:中野哲也
Vdg:福沢宏
Fl.tr:菊池香苗、菅きよみ
Ob,Ob d’amore & Ob d’acaccia 本間正史、川村正明
Fg:堂阪清高
Vc:伊藤耕司
Violone:西澤誠治
Cem:小島芳子
Org.p:武久源造

合唱:ハインリヒ・シュッツ合唱団、イースター・クワイヤ

指揮:淡野弓子

 さて、菊田音楽事務所の菊田佳之さんが企画なさった‘アルヴォ・ペルト 自選プログラム・コンサート’ が東京芸術劇場大ホールで開かれたのは4月26日(金)のことでした。ペルト氏は1990年3月、《ヨハネ受難曲》の日本初演に立ち会うため初来日され、大変な反響をよびましたが、その時の様子は拙稿『——40年の軌跡』(8)でお伝えした通りです。今回このコンサートのために再来日されました。
自選の6曲と演奏者は以下の通りです。
I. FRATRES フラトレス(1977/83)
II. MAGNIFICAT マグニフィカト(1989)
III. CANTUS IN MEMORY OF BENJAMIN BRITTEN ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌 (1977)
IV. CREDO クレド (1968)
V. FESTINA LENTE フェスティーナ・レンテ (1988, revision XII/1990)
VI. TABULA RASA タブラ・ラサ (1977)
指揮:Eri Klas Vn:Marc Lubotsky、服部芳子 Piano:土屋律子
東京交響楽団 淡野弓子指揮 ハインリヒ・シュッツ合唱団
 70年代の終わりから80年代の終わりにかけての5作品に1968年の 《クレド》が混ざっています。ペルト(1935- )は祖国エストニアで1968年まで共産主義的芸術観に基いて12音技法などによる作品を多数書いていましたが、この《クレド》の作曲途中、自らの技法に疑念を抱き作曲を中断、沈黙します。この間彼はグレゴリ聖歌、中世、ルネサンス音楽の研究に没頭し、1976年に1つの声部に他の声部の音が絡み、同時に鳴ると鐘を撞くような響きのする、彼独自の技法「ティンティナーブリ様式」を確立、その後《フラトレス》、《タブラ・ラサ》、《ヨハネ受難曲》などの傑作が生まれたのです。
 1968 年までの自作を全て否定したペルトでしたが、 《クレド》だけは破り捨てることが出来なかったそうです。主催者は、フル・オーケストラを必要とするこの作品は費用がかかり過ぎるので他の曲との差し替えを打診したところ、普段は温厚なペルト氏から「《クレド》抜きでは意味がない、コンサートを止めた方が良い」との返事。ここで菊田さんは「エイ!」と男気を出し、ペルト氏の提案通りのプログラムで開催の運びとなりました。
 私たちシュッツ合唱団はこの日、ア・カペラで《マグニフィカト》を歌い、ピアノ、オーケストラと共に問題の《クレド》を歌ったのです。 この作品は、バッハの平均律ピアノ曲集第1巻のプレリュードC-Durを基に据え、C音を動かぬものとして響かせながら、Credo 我信ず、と始まります。バッハは自然倍音に絶対の信頼を置く一方、12の調へのスムースな転調を保証する平均律を採用し、以後シェーンベルクの12音技法に至る西洋音楽の隆盛に貢献しました。しかしこの発展は音楽の真の進化ではなく、いわば接ぎ木に咲いた花が親木の花より美しく見えた、という一現象に過ぎません。人間は本当は何を欲して、いや、必要としているのでしょうか? ペルトの《クレド》はこれらの問題とそれの引き起こすショック、混乱、そしてその解決と救いを12という数字に託し、この数の持つ神秘の力、その象徴性とともに私たちに提示します。例えば、「目には目を、歯には歯を」の箇所は、o・cu・lum・pro・o・cu・lo, den・tem・pro・den・te.と12に切り刻まれ、半ば暴力的に用いられています。歌詞は典礼文の「Credo」ではなく、次のようなものでした。恐らくペルト自身の編んだものでしょう。

CREDO 我信ず
Credo in Jesum Christum. わたしはイエス・キリストを信ずる。
Audivistis dictum, あなたがたも聴いている通り、
Oculum pro oculo, dentem pro dente.” 「目には目を、歯には歯を」と命じられている。
Autem ego vobis dico: しかし、わたしは言っておく。
Non esse resistendum injuriae. 悪人に手向かってはならない。(マタイ5;38-39)
Credo in Jesum Christum. わたしはイエス・キリストを信ずる。

 同年6月2日(日)19:00 〈シュッツ全作品連続演奏〉第4回を石橋メモリアルホールにおいて開催しました。《宗教合唱曲集》(1648)より4つ(No.21, 7, 8, 26)のモテット、《十字架上の七つの言葉》、《イエス・キリストの復活の物語》です。
T:佐々木正利 イエス(七言)/福音史家(復活物語)
Vn:小野萬里
Va:李善銘
Vdg:平尾雅子、D.Hatcher、風早一恵、中野哲也
Chitarrone:中野哲也
Cem:小島芳子
Org.p:武久源造

ハインリヒ・シュッツ合唱団

指揮:淡野弓子
 この日はイエスが譬えを用いて語られた言葉をテキストとするモテット4曲に、非常に対照的な2作品《十字架上の七つの言葉》と《イエス・キリストの復活の物語》とを組み合わせたプログラムでした。《七言》では起こったことがすべて絵に描いたようにはっきりと見えるのに対し、《復活》では甦りのイエスを目前にしながらそれに気付かない人間の話が幾度も登場し、シュッツはこれらのシーンを思いがけない方法で音楽化しています。「音楽によって聖書の言葉を復活させる」ということを生涯のテーマとしたシュッツの音、響きは、それらを生み出した根源のエネルギーが実に今、ここに息づいている事を知らされたのでした。

 秋となり10月22日(火) 19:00 東京文化会館小ホールにおいて〈シュッツ全作品連続演奏〉第5回を開催、曲目は《カンツィオネス・サクレ》の後半20曲でした。この日のプログラム冊子に私はある一文を発表しています。そこに記されている問題点がなんとか解決の糸口を見るまでに、20数年の時を要したことに気付かされました。少々長いものですが、ここに再録させて戴きます。
 『シュッツのカンツィオネス・サクレを歌うにいたるまで』
 この難解で、霧の中で長いこと人を待っているような音楽をわたくしはこれまで意識的に避けてきた。演奏技術の問題もさることながら、何かを告白せずに歌うことは不可能であることだけは、良くわかっていたからである。この作品が、個=individual:2つには分けられぬ、ものの中にのみ浮かび上がる心のすがたを音楽としたものであるゆえに、そのようなものに向き合うには、自らの個の核となる一点を探し求める長い道のりを音楽とともに歩む覚悟が必要であった。
 ヤコブ・ベーメという名を初めて見たのは、コリン・ウイルソンの『宗教と反抗人』という本の中であった。1966年1月のことである。1964年9月から1965年9月まで、ドイツの、国家に守られた教会と教会音楽の中で破格の恩恵を受けたわたくしが、祖国日本でキリストの音楽を仕事として選んでしまったことに対する不安といらだちのさなかに読んだ書物であった。
 ベーメは1557年にドイツのシレジア地方に生まれた。プロテスタント最大の神秘家と呼ばれ、ヴィジョン———全てのものの存在、現実が肯定すべきものであるとの直観、自然に見入り、あらゆるものの意味が理解出来たように思え、それらのつながりを一つに把握する———を体験し、最初の書物『アウローラ(黎明)またはモルゲンローテ(曙光)』をあらわしたのであった。ベーメは外国語の単語の音を聞いて、その意味を当てたりした、という記述が印象に残った。この能力は、言葉は単なる意味の他に、その響きのなかに内在する大きなエネルギーのあることを暗示していた。
 1968年にシュッツ合唱団を結成し演奏を始めて以来、直接、間接に何故日本人には分からない言葉で歌うのか、ということを問われ続けていた。ある言葉につけられた音楽、その言葉でなければ生まれ得なかった音楽の言葉を、単に母国語に替えて歌う、ということには疑問があったので、実際に訳詞で歌うということは起こり得なかったにせよ、何故ここまで原語に固執するのか、を自分自身にも問いかける毎日であった。しかし、おのおのの言葉にはそれぞれの身振りがあり、言葉に対するセンスの鋭い作曲家ほど言葉は音楽と分ちがたく一つになっていて、その美しさはあたかも言葉と音とが化学反応の結果、全く思いがけない色調を発しているかのようでもある。このような音楽が、実際の音となって空間に放たれ、ある時間を経過する、ということは、社会の仕組みそのものが変容していくかのようなスリルに満ちている、とわたくしは思う。言葉はエネルギーであり、その意味内容はそのごく一部に過ぎない。この言葉と音との神秘の結婚から生ずる全体のエネルギーの中に身を浸すことによって、心や体の状態が変わっていくことは、意味を知って納得することとはまた別の価値があるのではなかろうか。
 ベーメの名を知って2年目、ハンス・ヨアヒム・モーザーの大著『ハインリヒ・シュッツ その生涯と作品』を手に入れた。なんとこの書物はベーメの『アウローラ』より16行にわたる抜き書きから始まるのであった。およその内容は次のようなものである。
まことの天、われわれ人間自身の見る、われわれが死んだらそこへ魂が行くとされている天は、これまで人の子たちにはほとんど隠されてきた。そこで人々はいろいろに考え、常に至るところでつぎのように信じてきた。天はこの地上から、数百マイルか数千マイルの彼方にあり、神はこの天にひとり住んでいる・・・・・この天の高さを計ろう、などということをあえて試みた二、三の物理学者もいたかもしれないが、そこから特別なものは、なにも引き出せなかったのだ。わたし自身もこの認識と神の啓示を受けるまえは、光るブルーの、星々の上に丸く円を描いているものが本当の天であり、神はそこに特別な存在として独り住み、ただ聖霊の力のみを用いてこの世を支配している・・と思ってきた。・・・真の天はいたるところに存在する。またあらゆる場所——あなたの立つところ、行くところに存在する。もしもあなたの霊が神の存在した最奥を把握することができたなら、そしてこの俗世を突き抜けることができたなら、そこはもう天である。・・・そう、あなたは知るべきだ、この世は天とともに動いており、ただ一つの心、一つの存在、一つの意志、一なる神があり、あらゆるものは、あらゆるもののうちに、あることを。
Jakob Böhme in ,,Aurora oder die Morgenrote im Aufgang” (1612)
 その後わたくしは、南原実 著『ヤコブ・ベーメ——開け行く次元』(牧神社)という書物を見付け、一気に読んだ。「・・・・彼はドレスデンの宮廷から招かれ、そこの宮廷づきの医師ヒンケルマンの客となった。ベーメは宮廷の位の高い人たち、大臣にもひきあわされた。みな彼の著作に興味を持つ人たち。」との記述にわたくしは、ベーメとシュッツがここで出会ったのだなと思った。モーザーも《カンツィオネス・サクレ》の章でベーメについて次のように述べている。「特に詩編149の食卓の祈り(SWV 81およびSWV 88-93に付けられた音楽はベーメの一撃がシュッツに与えた力の強さを物語っている・・・)
 とはいうものの実際に演奏して行くとなれば、楽器はあるのか、どこにいけばそれを借りることが出来るのか、といったあたりまえの問題に出くわす。歌の場合でいえば、声は出るのか、ということである。ここで問題は一挙に現実の悩みと化す。夢もヴィジョンもいうことをきかない肉体の前では形無しである。
 実際の練習では常に声の出し方とその響きが問題となっていた。「a」と出したいのに「ア」と止まってしまうことをいかに改良していくか、ということである。この「ア」はまことに複雑怪奇な化け物で、わたくしたちの生まれた土地、育った場所、受けた教育から日頃の気分に至るまでを一瞬に示す。日本人なら同じかというと決してそうではない。一人一人がそれぞれ微妙に異なった「ア」を持っている。今わたくしは「持っている」と記したが、本当に持っているのだろうか。いや違う。持っているのではなくこれらの音はたまたまそこに現れるのである・・・・・・!?
 この声の技術という問題と「日本人」ということが、いつの間にか混じり合って、考えが先へ進まなくなることがあまりにも頻繁に起こるので、わたくしは自分自身に憤りを感じ、再び考え直してみると、どうやらわたくしが「声」に対して持っている認識に問題があり、それを国とか民族に転嫁しているらしいということに気付いた。とにかく声の技術については疑問の残らぬよう、もう1度徹底的な修行が必要だ。
 昨年(註:1990年)この《カンツィオネス・サクレ》の前半20曲を歌って3週間後、わたくしはドイツで40年も現役でバッハを歌い続けているアグネス・ギーベルの歌唱に触れた。歌もさることながら、声そのものについて語る彼女の熱心さが新鮮であった。毎日声について研究を続けている様子だ。この技術をどうしても身につけたいと願った。さまざまな出来事を経てわたくしは、この夏60日間をアグネス・ギーベルの家に住み込んで根本的なところから叩き直され、夢にまで見た高い響きについて、ある認識と技を教えてもらうことが出来た。今ここに詳述することは出来ないが、それは実に生まれて初めての体験であった。
——後略——

1991年10月19日 淡野弓子

 ギーベル先生の内弟子体験は機会を待ってご報告したいと願っています。

  5日後の10月27日(日)19:00 〈アクネス・ギーベルを迎えて〉とのタイトルでイースター・クワイヤの公演が石橋メモリアルホールで行われました。
ヴィヴァルディ《グローリア》
バッハ《カンタータ131 深き淵より》
モーツアルト《戴冠ミサ曲》

S:アグネス・ギーベル、徳永ふさ子
A:佐々木まり子
T:佐々木正利
B:小原浄二

新ヴィヴァルディ合奏団と管打楽器奏者
Ob:小林裕、今井薫
Hr:山岸博、野瀬徹
N.Trp:嶋田俊雄、織田準一
Trb:萩谷克巳、利根川勝、福神浩貢
Timp:近藤健一
Vn I:内田輝(コンサートマスター)、森琢哉、徳井エマ
Vn II:吉井雅子、宮川正雪、畑澤泉
Va:生沼晴嗣、竹内晴夫
Vc:飛山宣雄
Fg:堂阪清高
Kb:大西雄二
Org.p:武久源造

合唱:イースター・クワイヤ

指揮:淡野弓子
 この演奏会は当時の私たちにとって飛び切りのものでした。正に「次元の違う声」が我々の合唱とともに鳴り響いたのです。彼女は70歳でした。
 2日後の10月29日(火)19:00 上野学園エオリアン・ホールにおいて〈アグネス・ギーベル 歌曲の夕べ〉が持たれました。
共演者S:徳永ふさ子、Cem/ Piano:武久源造、Vn:小野萬里、Vdg:福沢宏、朗読:淡野弓子らのもとに、バロック(パーセル、スカルラッティ、ヘンデル、バッハ)、クラシック(モーツアルト、シューベルト)、民謡風(E.フランク、E.ヴォルフ・フェラリ、ナポリ民謡)というバロックからナポリ民謡への展開という驚くべき歌の数々でした。

 思い掛けず大切な年となった1991年が明け、1992年1月24日(金)には国分寺市、国分寺教育委員会の主催による“サウンド・フェスタいずみ”の演奏会で、バッハ《ロ短調ミサ曲》を演奏しました。
S I:嶺貞子
S II:櫻井偕子
A:荒道子
T:波多野均
B:宮原昭吾

オリジナル楽器アンサンブル
Vn I:小野萬里、高岡真樹、戸田薫
Vn II:渡邊慶子、竹嶋祐子
Va:森田芳子
Bc:田崎瑞博
Kb:蓮池仁
Fltr:朝倉未来良、菊池香苗
Ob/Obdam:本間正史、庄司知史、川村正明
Fg:堂阪清高、川村正明
Trp:津堅直弘、栃本浩規、三澤慶
Timp:松倉利之
Cem:武久源造
 この想像を絶するミサ曲を繙くことによって、私たちはバッハに至る音楽史を遡ることおよそ200年間の様々な様式、言葉と音楽の関係、言葉と時間の問題など、音楽を貫く原則の数々を知ることが出来ます。強固な原則のもとに作曲された音楽は私たちに、「音楽とは?」に加えて「演奏とは?」「技法とは?」といった問題にも、ハッとするような答えを与えてくれました。

 さて、3月18日(水)19:00 〈シュッツ全作品連続演奏〉第6回が東京カテドラル聖マリア大聖堂において催されました。受難節でもありディストラー《コラール・パシオン》とシュッツ《マタイ受難曲》が歌われました。2曲ともア・カペラの作品です。シュッツの《マタイ受難曲》ではマタイによる福音書26、27章の受難記事がそのままテキストとなっていますが、ディストラーは四福音書を自由に渡り歩き、場面の区切りはコラールで締めくくられています。コラールは冒頭の曲を入れて全部で8曲ですが、1本のコラール旋律から8つのヴァリエイションが生まれ、統一感と同時に場面ごとに色彩の変化や霊的高揚を促すという力を発揮しています。ディストラーがシュッツ《マタイ受難曲》の練習を通して把握した事柄と感動は、この《コラール・パシオン》を生み出すエネルギーとなりました。シュッツ音楽の偉大さは言葉の持つ力と音楽の自然法則に潜む不思議なパワーとの結合によって、言葉の真の意味での錬金術的変容の結果、音楽でありながら音楽を超えるものなったところにあると私は考えます。
 今回は、1990年秋から1992年春までという短い期間の出来事しか書けませんでしたが、この期間は私にとってもシュッツ合唱団にとっても極めて重要であったことは間違いありません。ギーベル先生の教えによって、私たちは新しい段階を迎えることとなります。シュッツ音楽の持つ独特の複雑な音色と、ヤコブ・ベーメの語る神秘の世界に分け入るには、さらに長い修業が必要でしたが、この1年半の間に蒔かれた種は、善き実りを約束する確かな力に溢れていました。(続く)